雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『ノック 終末の訪問者』と原作小説「終末の訪問者(The Cabin at End of the World)」(ネタバレあり)

今回紹介する作品は『ノック 終末の訪問者』です。

【あらすじ】

7歳のウェンとその両親エリックとアンドリューは、人里離れたキャビンで休暇を過ごしていた。ある日、森の中でバッタを捕まえて遊ぶウェンの元に、一人の大男が訪ねてきた。レナードと名乗るその男は「友達になりに来た」とウェンに言い、ウェンと友好的にふれあうが、彼の後ろから禍々しい武器を持った男女がぞろぞろと現れる。怯えたウェンはキャビンに入り、エリックとアンドリューに助けを求めに行くが、キャビンに戻ろうとするウェンにレナードは「君たち家族はある決断を下さなければならない」と告げる…

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【原作】

原作はポール・トレンブレイの小説「終末の訪問者(原題:The Cabin at End of the World)」です。

これまでにブラム・ストーカー賞や英国幻想文学大賞などを受賞しているポール・トレンブレイですが、彼の本業は、小説家ではなく高校の数学教師です。執筆活動は日々の空き時間1時間ほどを使って書き進めるというスタイルだそうで、教師と小説家の兼業を続ける理由として、若者と触れ合うことで子供や10代の描写がリアルになることや、安定した収入があることで商業主義にならず好きなものを書くことができることなどを挙げています。その言葉の通り彼の作品は非常に独自性の強いものとなっています。

若いときに「IT」を読んで以来、スティーブン・キングを敬愛しているトレンブレイは、ホラー・SF作家として才能を開花させ、2015年に発表した『A Head Full of Ghosts』は尊敬するキングからSNSで絶賛されました。(ちなみに、スティーブン・キングに映画『カメラを止めるな!』をおすすめしたのはトレンブレイだそうです。)

小説『終末の訪問者』の発表にあたってトレンブレイは「映画のオーディオコメンタリーのように、小説にも作者の解説があってもいいだろう」ということで、小説の“ライナーノート”をブログにあげています。

興味のある方は是非読んでみてください↓

The Cabin at the End of the World liner notes | Paul Tremblay (the online version!)

 

【スタッフ・キャスト】

監督を務めたのは『シックス・センス』や『サイン』でお馴染みのM・ナイト・シャマラン監督です。

シャマラン監督は、独自の作家性やトリッキーな作劇などで、多くの映画ファンを魅了してきた監督です(時には叩かれたりもしていますが…)。

シャマラン監督にとっては前作『オールド』に続き2作連続となる原作のある作品で、今回も自らが脚本に参加しています。

映画の中盤以降の展開は原作から大きな改変を加えていますが、原作者のトレンブレイからは「私が最初に考えていた案だ」とお墨付きをもらったそうです。

ちなみにシャマラン監督といえば、自身の監督作品に役者として出演することでもお馴染みですが、本作のあるシーンにも登場しています。是非探してみてください。

本作の中心人物となる少女・ウェンを演じたのは、クリステン・キュイ。本作が初めての長編映画となる彼女は、デビュー作とは思えないほど自然な演技をしており、原作で描かれる利発な少女そのものでした。

ウェンの両親、エリックとアンドリューを演じたのは、ジョナサン・グロフとベン・オルドリッジ。同性同士のパートナーを演じた二人は、共にゲイであることを公表しており、ジョナサン・グロフは15年前、ベン・オルドリッジは3年前にカムアウトしています。実際の性的マイノリティのキャラクターを当事者が演じるのはとても誠実なキャスティングで、エリックとアンドリューの二人が互いを思い合う感情に説得力が増していました。

4人の訪問者を演じたのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのデイヴ・バウティスタ。『ハリー・ポッター』シリーズのロン役で知られるルパート・グリント。シャマラン監督の前回作『オールド』にも出演したニキ・アムカ=バード。シンガーソングライターとしても活躍するアビー・クイン。彼らは「世界の終焉を防ぐために一家に犠牲を強いる」という、善良とも邪悪とも受け取れる難しい役柄を誠実に演じていました。

 

私見

78点/100点満点中

予測不能なな作劇を得意とするシャマラン監督の資質と、原作小説の狂気的ともいえる訪問者たちの言動が上手くマッチし、とてもスリリングな映画に仕上がっていました。

映画のラストは原作小説と大きく異なりますが、個人的は映画版のエンディングの方が好みでした。

しかし、原作由来の物語とはいえ、陰謀論者が先鋭化し過激派集団となっている昨今、「荒唐無稽な終末論を語る集団が実は正しいことを言っていた」というストーリーは、かなり危なっかしいんじゃないかと感じました。

 

 

 

以下ネタバレ有り

 

 

 

【原作との違い】

映画版『ノック 終末の訪問者』は、前半部は原作に沿って展開しています。レナードとウェンの出会いから、訪問者たちによる山小屋への侵入、一家の誰かが犠牲を払わなければならないという状況説明、そしてレドモンドの殺害。ここまでがほぼ原作通りに進みます。

原作と大きく異なってくるのが中盤からの展開です。映画版では、訪問者の一人であるエイドリアンが、仲間たちの手によってによって殺められていましたが、小説では拘束から抜け出したアンドリューが車の中から銃を取り出し、襲いかかってきたエイドリアンを射殺しています。

そして、原作小説で最も衝撃的なのがこの後の展開です。エイドリアンを殺めてしまったアンドリューが呆然としていると、レナードが銃を奪おうと飛びかかり、二人は揉みあいになります。そして、奪い合い末に銃が暴発し、不幸にもその銃弾は娘のウェンを顔面を射抜き、幼い命を奪ってしまうのです。

言葉を失うような展開ですが、さらに輪をかけて最悪なのがウェンの死はあくまで事故であり、一家の選択によるものではないので、世界の崩壊は続いているということです。

その点、映画版では幼い子供が死ぬことはなかったので、少しシャマラン監督の良心のような物を感じました。(まぁ、別の人物が犠牲となっているのですが…)

映画版ではサブリナがアンドリューによって射殺されていまいたが、原作でのサブリナは、一家に犠牲を強いる残酷なやり方に良心が揺らぎ、アンドリューに対して「あなたとエリックがここから出るのを手伝うわ」と提案しています。レナードは二人を逃そうとするサブリナを止めようと呼びかけますが、彼女はエリックとアンドリューを救うため、凶器でレナードを殺害します。

3人となったエリックとアンドリューそしてサブリナは、キャビンを出て、訪問者たちが乗ってきた車に向かうのですが、その道中で何かの啓示を受けたようにサブリナの様子がおかしくなり、レドモンドが隠していた銃を見つけると、その銃で自殺してしまします。

今回の映画版では、原作でのサブリナのように、エリックとアンドリューに寄り添おうとするキャラクターが不在となったため、犠牲を強いることに対しての訪問者側の葛藤が薄らいでしまったように感じました。

映画のラストではエリックが犠牲となる使命を選び、世界の崩壊を止めていましたが、原作のオチは全く異なります。

原作では、サブリナの死後、エリックは彼女が使った銃を拾い上げ、自分の命を絶とうとしますが、アンドリューがそれを許しません。エリックは世界の崩壊が起こることを確信しており、アンドリューもこの状況が理屈では説明がつかないと半ば感じてはいるのですが、その事実を必死に否定し、もし世界が滅ぶ運命にあったとしても「僕たちはお互いを傷つけるようなことはしない」と断言します。

絶望の只中にいるエリックが「僕らはどうなる?これ以上は進めない」と言うと、アンドリューは「進んでいくのさ」と答え、世界の破滅が始まろうとも2人で生きていくのだという決意が示され、物語は終わります。

これから世界の終焉が始まることを考えると、絶望的な終わり方ではありますが、2人が絶対に互いを犠牲にしないという、愛を貫いたともいえるオチになっていました。

 

【7という数字】

今作の中で重要なファクターとなっているのが7という数字です。

原作者のポール・トレンブレイがライナーノートに記している通り、この作品は7という数字にこだわって作られています。ウェンの年齢や、ノックの回数、主要な登場人物の数、訪問者たちの名前をアルファベット表記したときの文字数など、至る所に7という数字が散りばめられています。

原作ではバッタを7匹も捕まえたことを自慢するウェンに対して、レナードが「パワーにあふれた魔法の数字だ」と言い、ウェンが「ラッキーな数字じゃないの?」と訊くと、「いいや、ラッキーなのはときどきさ」答える場面があります。このように本作において”7”は不吉な数字として扱われています。

7という数字は新約聖書の『ヨハネの黙示録』で象徴的に使われている数字です。『ヨハネの黙示録』は神の裁きによって訪ずれる世界の終末を記したもので、子羊(キリスト)が封印を解いたことによって起こる厄災を記した”7つの封印”、天使たちがラッパを吹くことによって起こる厄災を記した”7つのラッパ”、神の激しい怒りが満ちた鉢を天使が注いだことで起こる最後の厄災”7つの鉢”と、世界の終末が7という数字とともに預言されています。

このように、本作はキリスト教的終末論が、物語のベースとなっています。

映画では端折られていましたが、原作ではウェンがレナードに対して、「誰があなたにこんなことをさせてるの?」と訊ねる場面があります。その問いに対してレナードは「神」と一言答えます。レナードをはじめとして、訪問者たちは皆信仰にあついわけではありません。しかし、彼らが見た未来のビジョンはは人智を超えた強烈なもので、神の裁きだとしか思えないからこそ、彼らの行動には迷いがないのでしょう。

また、映画版オリジナルの要素として、レナードがバスケットボールチームの教え子たちの写真を見せたり、エイドリアンが自分に息子がいることを訴えたりするシーンが加えられていますが、そのような守らなければいけない人たちの存在が、世界の崩壊を止めようとする彼らの使命感を強めていて、より切実さが感じられました。

 

黙示録の四騎士

映画のクライマックスでは、世界の終末が訪れることを確信したエリックが、4人の訪問者を「黙示録の四騎士だ」といいます。

"黙示録の四騎士"とは前述した『ヨハネの黙示録』の7つの封印の章に記されている4人の騎士(正確には騎士ではなく"馬に乗る者")で、7つの封印のうち、はじめの4つの封印が解かれた時、騎士が1人ずつ現れます。

1つ目の封印を解くと現れるのが、"支配"を象徴する白い馬の騎士。2つ目の封印を解くと現れるのが、"戦争"を象徴する赤い馬の騎士。3つ目の封印を解くと現れるのが、"飢餓"を象徴する黒い馬の騎士。4つ目の封印を解くと現れるのが、"死(病)"を象徴する青白い馬の騎士です。

原作でも訪問者たちが黙示録の四騎士であることを想起させるような箇所はあるのですが、映画版では4人の訪問者それぞれ役割を明確に四騎士に準えています。

バスケットボールチームのコーチを務めるレナードは、四騎士でいうなれば、"支配(映画内では"導き"と表される)"を司る役割で、ゲイであるアンドリューにヘイトクライムを仕掛けた過去があるレドモンドは"戦争(映画内では"恨み")"を司っています。ウェンに食事を与えたエイドリアンは"飢餓(映画内では"養い")"、エリックを手当した看護師のサブリナは"病(映画内では"癒し")"とそれぞれが四騎士に準じた役割を担っています。

 

【終末】

上記のようなキリスト教的終末論などから、本作は宗教的なプロパガンダ色の強い作品に感じられますが、シャマラン監督自身は特定の信仰はないといいます(本人はカトリック系の学校を卒業していますが、両親はヒンドゥー教徒だそう)。

シャマラン監督は「宗教や神話はストーリーテリングの一種」と語っており、宗教や終末論という要素も監督にとっては面白いストーリーを作るための材料に過ぎないようです。また監督は「僕はこの世の中がダークで邪悪だと思っていない。むしろこの世界は慈悲深い場所だ」とも語っています。故に、終末論を題材とする映画であっても、物語を悲観的なものに終結させず、希望を残して終わらせることにこだわったのでしょう。

前述したように、本作は原作小説と映画で大きく異なる結末を迎えます。

エリックとアンドリューが互いの犠牲を選ばなかった原作に対して、映画版ではエリックが自ら犠牲となり世界の崩壊を阻止します。

クライマックスでエリックが見る、アンドリューとウェンの未来のビジョンは、映画オリジナルのものです。最愛のパートナーを失うことは二人にとって無慈悲で残酷な選択であり、自分自身の一部を失うような辛い痛みを伴うものです。しかし、ウェンがささやかでも幸せに生きられる世界があるのであれば、命を賭してでもこの未来を守らなければならないとエリックは思ったのでしょう。

シャマラン監督は自身の作家性について「暗い物語をたくさん作れるのは、人や世界に対して前向きな思いを深く感じているから」とも述べています。幸せな世界を信じるからこそ、それが奪われ壊される恐怖を感じるのであり、逆説的にいうと暗澹たる世界の中でこそ、絶対に譲れない幸せが見つけられるのかもしれません。