映画『のみとり侍』と原作小説『蚤とり侍』の比較(ネタバレありの感想)
今回紹介する作品は
映画『のみとり侍』です。
【あらすじ】
時は江戸。越後長岡藩の勘定方書役として出世街道をひた走っていた小林廣之進は、ある日の歌詠み会で、藩主の牧野備前守忠精が作った歌が良寛の歌に酷似していることを指摘し、忠精の逆鱗に触れてしまう。主君から「猫の蚤取りになって無様に暮らせ」と吐き捨てられた廣之進は、言われるがままに"蚤取り屋"に行き雇ってもらうよう申し出る。しかし、蚤取り屋の実態とは、寂しい女性と床を共にする裏稼業だった…
【原作】
原作は小松重男の同名小説『蚤取り侍』です。
表題となっている『蚤取り侍』は、短編小説集の中の一作で、今回の映画はこの表題作品の他に2作の短編を織り交ぜて映像化しています。
原作者の小松重男さんは、元々鎌倉アカデミアの演劇科出身で、卒業後は松竹大船撮影所で『古都』や『愛と死』などで知られる映画監督の中村登に師事した方です。その後は前進座という歌舞伎劇団で文芸演出部を務め、新協劇団という劇団では演出部に就くなど演劇界で精力的に活動されてきました。その演劇映画界で培った知識や演出術が、小松さんの作品の礎となっています。
作家としてのキャリアのスタートはかなり遅咲きで、46歳でデビュー作『年季奉公』を発表。その作品で早速オール讀物新人賞を受賞します。その後は、『鰈の縁側』『シベリヤ』で直木賞候補にノミネートされるなど、めざましい活躍を見せました。(『年季奉公』と『鰈の縁側』は本著の中に収録されています。)
しかし、残念なことに昨年2017年、小松さんは亡くなられてしまい、この映画を観ることは叶いませんでした。
【スタッフ・キャスト】
本作のメガホンをとったのは、『愛の流刑地』や『後妻業の女』の鶴橋康夫監督です。
鶴橋監督はこれまでの映画作品でもれなく業の深い男女の性愛をテーマにしており、『のみとり侍』もこれまでの作風に漏れず、男女の性愛とその業を描いた作品となっています。鶴橋監督は本作の脚本も務めているのですが、蚤とり屋という男娼商売は確かに存在したものの文献が多くなく、時代考証担当の大石学さん(東京学芸大学教授)と共に創作性を織り交ぜつつキャラクターを作り上げていったそうです。
主人公・小林廣之進を演じたのは阿部寛。鶴橋監督とはテレビドラマ「天国と地獄」以来のタッグとなる阿部さんは、愚直すぎる藩士の役がピッタリとはまっており、真面目さとどん臭さのあるキャラクターを好演していました。
【私見】
70点/100点満点中
小松重男さんの短編小説3つを繋ぎ合わせて1本の作品としてまとめた本作。
原作小説の魅力であった、人間の可笑しみや愛おしさがきちんと映像作品として昇華されており、原作者に対してのリスペクトが感じられました。
原作よりも人情劇的に仕上げた演出や、映画オリジナルで加わった政治的展開など映画としての面白さも加えられていて良かったです。
ただ、3つの作品を繋ぎ合わせたことによる歪さも少し感じられました。
以下ネタバレあり
【原作との比較】
上にも述べた通り、今回の映画版は小松重男氏の短編集のうちの3作品をピックアップし、1本の物語としてまとめた作品となっています。
まず、映画のタイトルにもなっている短編『蚤取り侍』。主君の逆鱗に触れた藩士が猫の蚤取りなる淫売夫稼業に転身する物語で、映画版ではこの作品の主人公である小林廣之進を物語全体のメインキャラクターとして据え、江戸の人々の人間模様を描いています。
2つ目が、小間物問屋に婿入りしたものの妻の鬼嫁ぶりに嫌気がさした男が不貞を働く『唐傘一本』。この短編の主人公である清兵衛を、映画版では廣之進の性交の指南役として据え、バディムービーのような味わいに仕上げていました。
そして3つ目が、子供たちに無償で読み書きを教える貧しい男が猫の引っ掻き傷から病を発症してしまう『代金百枚』。映画中ではこの短編の主人公・友之介を、廣之進が暮らす長屋の隣人という設定にしており、武士だった廣之進が町人たちの暮らしぶりや心意気を知っていくうえで欠かせないキャラクターとなっています。
基本的には上記の3作を繋ぎ合わせて、原作のストーリーをなぞらえつつ映像化した作品なのですが、メインの物語である『蚤とり侍』のシナリオは少々映画オリジナルの要素が加わっており、クライマックス部が原作よりもエモーショナルになっています。
今回の映画版では越後長岡藩内で汚職が横行していたという設定が加わっており、勘定方書役であった廣之進はその生真面目さ故に藩内の者たちから反感を買い、命を狙われていたことがラストで明かされます。クライマックスでは長岡藩の江戸屋敷にて廣之進が忠精に対し、蚤取り屋になることで自分の命が救われたことと、町人たちの人情味あふれる暮らしぶりを一気呵成に伝えます。
こうした改変で、原作よりも人情劇的な物語に改変されていました。
【原作からの改良点】
映画内で原作よりもフューチャーされている人物が、老中・田沼意次です。原作にも名前は出てくるものの物語に直接絡みはしなかった田沼意次が、本作ではおみねを妾として寵愛する人物として登場します。
他の時代劇では悪漢として描かれることの多い意次ですが、この作品においては新しいものをどんどん受け入れる先進的な考えを持った人として描かれています。
映画の終盤、松平定信が老中首座になったことにより失脚した意次は、おみねの元に現れ廣之進と相対します。蚤取りが禁制になる旨を告げた意次は、「私の敵は人心の衰退だ」と述べます。
人々の心が満たされ世に金が回れば何でも結構と考え、蚤取り稼業も暗黙に許可していた意次にとって、蚤取り禁制から始まる幕府の締め付けは、社会の寛容性の喪失と同義なのです。この意次のセリフには現代にも通ずる皮肉が込められているように感じました。
【不満点】
本作はそれぞれに繋がりのない3つの短編を巧みに繋ぎ合わせてはいるのですが、無理に繋げたために主題のブレを感じてしまうところもいくつかありました。
今回映像化された3つの短編の中で他の作品と毛色が違うのが、『代金百枚』です。『蚤取り侍』も『唐傘一本』もどうしようもない男の性愛を描いた物語なのですが、『代金百枚』にはそのような性愛描写はなく、良き人間が人々の情に触れる人情劇的なテイストになっています。他の2作は人間の業を描いたどこか落語的な作品で、男の仕様がなさを笑って見る物語上の推進力があったのですが、対してこの物語だけ悪い意味で良い話すぎる気がしました。
あと、意次の失脚により蚤取りが禁制になったことで、人々の心が荒んでいく様を描いて欲しかったです。そうすることで蚤取り屋の必要性がきちんと描かれたのではないかと思います。(原作には蚤取り屋なき後の様子がが記されています)
【唐傘一本】
本作の3人のメインキャラクターの中で最もどうしようもない男が清兵衛です。小間物問屋に婿入りした清兵衛は、スキンシップが荒く猜疑心の強すぎる妻に辟易し、廣之進に協力を依頼して不貞を働きます。しかしおたえにその行為がバレてしまった清兵衛は、婿入りした時に携えていた唐傘一本だけを持って家を追い出されます。家も職も失った清兵衛は蚤取り屋へと転身します。 (清兵衛が蚤取り屋になる展開は映画オリジナルです。)
元々武家の出身である清兵衛は、町人としての心意気と武士としての誇り両方を持ち合わせている男です。
友之介が猫の引っ掻き傷から病に倒れた時、清兵衛は彼を助けてあげようと自分を追い出した小間物問屋に向かいます。この時の清兵衛は、武士のように対面に固執せず、プライドなどかなぐり捨て、友之助を助けるためだけに走り出していました。
その一方で、廣之進が長岡藩の江戸屋敷で殿様と対峙した時、清兵衛も廣之進と同じく沙汰を受けようとします。その姿はまさしく自己犠牲を厭わない武士の姿でした。
【代金百枚】
父からの教えを守り、子供達に勉学を教える佐伯友之介(原作では友之進という名)。彼はこの作品の中で唯一と言っていい高潔な精神の持ち主です。
友之介は月謝を貰わず子供達に読み書きを教える善良な人間ですが、その生活は貧困を極め、野良猫が食べる残飯の魚にまで手を出そうとするほどです。猫に襲われ怪我をしてしまった友之介は高熱を出し生死の境を彷徨います。友之介も貧乏長屋の人々も治療費を払う金などありませんでしたが、廣之進から彼が子供達に手習いを教えてきた事の尊さを説かれ、父から遺した名刀を治療費の代わりにあてることを決意します。
明治から昭和にかけて活躍したの政治家・後藤新平の名言に「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上」という言葉があります。友之介はまさにこの言葉の体現者と言えます。
父から授かった価値の高い名刀(実際は安い贋作でしたが)を売ってでも子供達のために尽くそうとするその姿勢は、まさに人を遺す者です。
その姿を見た廣之進は友之介と町人たちの気概に感銘を受け、殿様と対峙した時に彼らの気高さを朗々と語ります。友之介の人を遺すという精神は、彼の弟子子だけでなく廣之進にも及んでいたのです。
【蚤とり侍】
真面目すぎる藩士・廣之進は、実直な男であり、また愚直な男でもあります。
廣之進が蚤取りに身を落とすきっかけは、藩主・忠精の詠んだ歌が良寛の作品に似ていることを指摘しただけという実に些細なものです。こんな馬鹿馬鹿しい理由から、彼は殿様より「蚤取りになって無様に暮らせ」と言われてしまうのです。他の者であれば絶望して切腹や脱藩をしてもおかしくないところですが、馬鹿正直な廣之進は殿の命に従い、蚤取り屋の職に就きます。そして彼は江戸を生きる様々な人間と出会います。
本作のクライマックス、かつて仕えていた殿の前で自分の思いの丈を一気呵成に伝えた廣之進。その思いは忠精にも届き、廣之進は帰藩することになります。
藩から酷い仕打ちをを受けた廣之進ですが、彼にはそんな人達をも受け入れられる寛大さがありました。蚤取りの職に就き、人間のどうしようもなさや仕様がなさ、しかしその中にある愛おしさを知った彼だからこそこの寛容さを持つことができたのかもしれません。
帰藩して再び武士となった廣之進ですが、彼の中には蚤取り屋としての魂もしっかり息づいています。映画のラストシーンで町人たちに手を振る廣之進の顔はそれを物語っていました。