雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『魔女がいっぱい』と原作小説『魔女がいっぱい(原題:The Witches)』(ネタバレあり)

今回紹介する作品は

『魔女がいっぱい』です。

f:id:nyaromix:20201208123509j:plain

あらすじ

 交通事故により両親を亡くしてしまった少年は、おばあちゃんの家に引き取られ、2人で暮らすこととなった。少年は、両親の死以来ずっと心を閉ざしていたが、優しいおばあちゃんのおかげで、少しずつ心を開くようになっていく。そんなある日、少年は買い物に出かけた店で、怪しげな女と遭遇する。おばあちゃんにその不気味な女の話をすると、「その女は魔女だ」とおばあちゃんは言い、自分が幼いころ、友達が魔女の手によってニワトリに変えられてしまったことを少年に話した。二人は魔女の手から逃れるためにアメリカ南部のホテルへと避難するが、そのホテルでは魔女たちの集会が行われ、この世から子供を消すための計画が企てられていた…

 

原作

原作はロアルド・ダールの小説『魔女がいっぱい』(原題:The Witches)です。 

 ロアルド・ダールは、チャーリーとチョコレート工場の原作である『チョコレート工場の秘密』や、ファンタスティックMr.Foxの原作である『父さんギツネバンザイ』などの児童文学作品で有名な作家です。

 ロアルド・ダールは、ファンタジックな世界の中に、ブラックユーモアや狂気性が見え隠れする作風が持ち味の作家です。子供向けのハートフルな作品でも、時折ギョッとする様な描写があり、その気の抜けなさが彼の作品の面白さでもあります。

 ダール作品は自身の経験を投影した物語が多いですが、『魔女がいっぱい』は特にダールの出自や思い出が反映されています。ノルウェー人の両親の元に生まれ、イギリスで育った設定や(映画版の主人公はアメリカ人でしたが)、サーカスの団員に憧れ、ペットのネズミに綱渡りを覚えさせるシーンなどは作者の体験が元になっています。また、本作に登場する魔女は、ダールの少年時代、近所の菓子屋で店番をしていた子供嫌いの鬼婆のような女がモデルになっているそうです。ダールは、その意地悪な店番への仕返しとして、菓子瓶の中にネズミの死骸を入れたりしていたそうです(いや、やりすぎ…)。そのようなダールの少年期の思い出から生まれたのが、本作『魔女がいっぱい』です。

 本作の映画化は1990年の『ジム・ヘンソンのウィッチズ/大魔女をやっつけろ!』に続いての2回目の映像化となります。

 

スタッフ・キャスト

 本作のメガホンを取ったのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』などの名匠、ロバート・ゼメキス監督です。

バック・トゥ・ザ・フューチャー [Blu-ray]
 

本作は、ゼメキス監督が今まで手掛けてきた作品のエッセンスがふんだんに盛り込まれています。『ポーラー・エクスプレス』や『Disney'sクリスマス・キャロル』で手掛けた児童文学の映像化や、『永遠に美しく』で描いた魔女的なモチーフ、『ロジャー・ラビット』で描いた動物と人間のコミカルなドタバタ劇など、監督の過去作に通ずる要素がてんこ盛りで、ゼメキス作品が好きな人にはたまらない一本となっています。

 脚本には、コメディ作品を得意とする新鋭の脚本家ケニヤ・バリスの他に、『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』などでお馴染みのギレルモ・デル・トロ監督が参加しています。

 さらに製作には『ゼロ・グラビティ』や『ROMA/ローマ』のアルフォンソキュアロン監督も加わっており、最強のクリエイターたちが集まった作品となっています。

 主人公の少年を演じたのはジャジール・ブルーノ。本作撮影時まだ9歳だったのですが、演技は堂に入ったもので、特にネズミに変えられた後の愛嬌とたくましさが同居した声の演技が素晴らしかったです。

 主人公のおばあちゃんを演じたのは名優オクタビア・スペンサー。優しくも時に厳しいおばあちゃんを、愛嬌たっぷりに演じており、主人公が心を開いていく展開にここまで説得力を持たせられるのは彼女以外いない気がします。

 そして、本作において最も重要なキャラクターである大魔女を演じたのはアン・ハサウェイ。彼女は幼いころからロアルド・ダールの大ファンだったそうで、ダール作品の恐ろしいキャラクターを演じることに嬉々としていたそうです。原作の大魔女は喋り方が独特で、強いなまりがあり、は行とら行の発音にクセがあるのが特徴です。アン・ハサウェイは、アクセントのコーチとともに様々な喋り方にアプローチし、最終的に8世紀から14世紀にかけてスカンジナビア人が用いていた古クルド語のアクセントに到り、Rで舌を巻くような発音にしていったそうです。

 

私見

72点/100点満点中

 本作は、原作小説にきちんとリスペクトをもって映像化してあるのが伝わり、ダールの意思を汲んだ結末にも、大変好感が持てました。

 所々に加えられた改変も、現代の時世や長年の社会問題などを反映したものになっており、全体的に良いアレンジに仕上がっていたと思います。

 ただ、魔女の造形に関しては、現実社会で苦しむ人たちへの配慮を欠いていたように思い、非常に残念でした。

 

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

原作との比較 

 映画版の大筋は、原作小説の流れを準えて進みます。大まかな展開は原作通りなのですが、1980年代に発表された原作小説の現代的な再解釈や、映画オリジナルのアレンになどが所々に散りばめられています。

 原作からの大きい改変点としては、作品の舞台がイギリスとノルウェーからアメリカ南部に変わっていることや、主人公が飼うペットのネズミが魔女によって姿を得られた少女だったという設定などが挙げられます。

 また、原作のクライマックスは、主人公がスープの中にネズミニナールを混ぜ、ホテルで食事していた魔女たちが全員ネズミに変えられて決着がつくのですが、映画版は、主人公たちが大魔女と直接対決するシークエンスが加わっています。主人公たちの勇気とチームワークによって大魔女を倒すため、原作よりもエモーショナルな展開になっていました。

 下っ端の魔女が大魔女に焼き消される描写など、子供向けの作品にしてはかなりショッキングなシーンも原作小説からしっかりと踏襲されていて、マイルドな表現に逃げない姿勢に好感が持てました。主人公がネズミに変えられてしまうシーンは、原作小説以上に恐ろしく描かれており、子供たちのトラウマになりかねないレベルになっています。原作から端折られたショックシーンとしては、ネズミになった主人公が、調理場のコックに尻尾を切られてしまうシーンなどがカットされていました。

f:id:nyaromix:20210205182443j:plain

 ネズミに変えられてしまった主人公が人間の姿に戻らないという結末は原作小説そのままです。本小説の最初の映画化となった、1990年の『ジム・ヘンソンのウィッチズ/大魔女をやっつけろ!』では、ネズミに変えられた少年が、善良な魔女によって再び人間の体を取り戻すというオチに改変されており、原作者のロアルド・ダールはこの改変にひどく不満を抱いていたそうです。そのため、ネズミとして生きていくことを選ぶ今作の結末は、ロアルド・ダールの意思をしっかりと受け継いだものとなっています。ただ、原作小説の主人公は、自分の姿がネズミに変えられてしまったことを割とすんなり受け入れていて、人間の体を取り戻すという考えが一切ないところが少々飲み込みづらくもありました。今回の映画版では、大魔女の部屋から盗み出したネズミニナールを調合し、人間に戻ろうと試みる様子が描かれていたので、主人公の心情の変化が原作小説よりは飲み込みやすくなっていたと思います。

 

 不満点

 この映画の最大の欠点は、すでに社会的な問題にもなっているのですが、やはり魔女の造形に関することでしょう。

  原作で描かれる魔女は、頭が禿げ上がっており、手には細長く曲がったかぎ爪があり、つま先がなく、鼻の穴が大きいなどの特徴があります。対して今作は原作に忠実な部分もあれば、手の指が3本しかないなどの映画版オリジナルの要素もあるインパクトの強い造形になっています。

 しかし、手足の指がないといった身体的特徴は、現実社会にある裂手裂足症などの障害を彷彿とさせるもので、それが残忍な魔女の特徴とされていることはやはり看過できませんでした。(この件については、ワーナー・ブラザースおよび大魔女を演じたアン・ハサウェイが謝罪のコメントを発表しています。)

 今回の映画版で描かれる魔女は、全体的に現実社会で暮らす人々とリンクしないようにする配慮が欠けていたように思います。極悪非道な悪役を描くのであれば、身体障害者や女性といった社会的弱者とされる人々となるべく結びつかないような現代的な再解釈がもう少し必要だったのではないかと思います。 

f:id:nyaromix:20210205182515j:plain

 映画のエピローグで描かれる、ネズミに変えられた主人公がおばあちゃんと共に世界中の魔女を退治しに行くという展開は原作に沿ったものなのですが、原作小説では主人公とおばあちゃんが二人で魔女退治に出かけようとしていたのに対し、映画版は主人公が他の子どもたちを扇動し、一緒に魔女を懲らしめようと呼びかけています。一応、主人公は魔女たちの居場所が記されたリストを入手しているというエクスキューズはあるのですが、子供たちを焚きつけるこのシーンは悪い意味での“魔女狩り”を想起してしまい、要らぬ不安感を抱いてしまいました。(これに関しては私の考えすぎかもしれませんが…)

 

おばあちゃんのポジティブ思考

 原作小説内では、主人公やおばあちゃんの人種や肌の色について、特に言及はないのですが、本の挿絵には白人の少年とおばあちゃんが描かれているため、今回の映画版で黒人を主人公に据えたことも一つ大きな改変といえるかと思います。

 この改変により、おばあちゃんのキャラクター性は、原作以上に深みのあるものになっていました。

 映画版の時代背景は、アフリカ系アメリカ人たちの公民権運動の機運が高まりだした1960年代で、舞台はアメリカ南部の保守的な土地であったアラバマ州です。主人公とおばあちゃんがホテルを訪れた際の、支配人のやや怪訝そうな態度からも、黒人に対して寛容でなかった当時の風潮や、魔女が悪事を働いたとしてもこちらの味方をしてくれなさそうという不信感が感じられます。

 このような些細な演出から、おばあちゃんの明るくポジティブな性格は、きっと過去に黒人女性として多くの苦難やつらい経験を乗り越えてきたからこそ生まれたのだと感じられます。そして、そのおばあちゃんのポジティブな思考が孫である主人公にも伝染し、その前向きさや勇気が結果的に魔女を打ち倒した一つの要因ともなっています。

 映画のラストでは、大魔女を倒したおばあちゃんが、ホテルで働く黒人従業員たちに、チップを配つシーンが描かれており、おばあちゃんが掴み取った幸せをみんなにおすそ分けしているように感じられ、希望に満ちた終わり方になっていました。

f:id:nyaromix:20210205182550j:plain

 

家族のあり方

金持ちの息子で食いしん坊のブルーノは、その食い意地のせいで魔女たちの罠にはまり、ネズミに変えられてしまいます。原作小説のラストでは、ネズミになったブルーノを、ネズミ嫌いの彼の母親に押し付け、親元に返すのですが、映画版ではブルーノを母に押し付けるようなことはせず、主人公と共に楽しく暮らすという結末に変えられています。この改変は、血縁主義や縁故主義にとらわれない、家族のあり方についての現代的な再解釈のように思え、とても好感が持てました。 

f:id:nyaromix:20210205182640j:plain

 主人公の少年は交通事故によって両親を亡くしており、白ネズミに変えられてしまった少女・メアリーは、孤児院を抜け出した身寄りのない子供です。このように今回の映画版の中で登場する子供たちは、両親を亡くしていたり、親から見捨てられたりと、全員が一度家族を失ったた子供たちです。そんな彼らが、従来の形にとらわれない新しい家族を形成していくというのが本作の面白さになっています。児童向けのストーリーのように見えて、実は喪失した者たちの再生の物語という重厚さが胸を打ちます。

 

外見ではなく本質を、絶望ではなく希望を

 本作を鑑賞した多くの人が驚くのが、ネズミに変えられた主人公が人間の姿に戻らないという結末でしょう。前述したとおり、1990年の映画版ではネズミになった主人公が人間の姿を取り戻すというオチになっており、これに対してダールは「重要なのは外見ではなく、その人の本質を愛せるかどうかなのに」と憤慨したそうです。

 原作小説では、ネズミになってしまった主人公が読者に向けてこう語ります。

ぼくが、どうしてがっくり落ち込んだいないのか、君たちはふしぎに思っているだろう。ぼくは、色々と次のようなことを考えていたのだ。男の子だということはなにがそんなにすばらしいのだろうか?男の子だということが、なぜ、絶対的にネズミよりましだと言えるだろうか?

そして、ネズミになったで姿をおばあちゃんと再会した時、主人公はこう語ります。

ぼく、正直言って、これが特別いやって感じないんだ。しゃくにさわりもしないんだ。ほんとのところ、かなり愉快なんだよ。もう男の子ではないし、二度と男の子になれないってわかってるけど、僕の世話をしてくれるおばあちゃんがいてくれたら、ぼく、ぜんぜん平気だもの。

 主人公にとっての幸せとは、男の子の姿で生きることではなく、自分のことを愛してくれるおばあちゃんと一緒にいることで、それこそが彼にとっての世界の本質なのです。

f:id:nyaromix:20210205182707j:plain

 この物語の特異な点は、主人公たちが絶望的な状況に置かれても、失意に飲み込まれないところです。

主人公も、両親を亡くしてすぐは、厭世的な気持ちに苛まれていましたが、明るいおばあちゃんのおかげで世界に希望を見出し、ネズミになっても悲観的にはならず決して希望を見失いませんでした。

表面だけを見れば絶望的に思えることでも、本質を見据えれば必ず希望はある。そんなことをダール作品は教えてくれるのです。