雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』と原作漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は、

映画志乃ちゃんは自分の名前が言えないです。

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 【あらすじ】

人と喋ろうとするとどうしても言葉が詰まってしまう少女・大島志乃。彼女はこの春から高校一年の新学期を迎えようとしていた。人前で上手く話すことの出来ない志乃は、新しいクラスで上手く自己紹介が出来ず、 みんなの笑い者になってしまう。友達も出来ずひとりぼっちの志乃だったが、ひょんなことからクラスメイトの加代と知り合い、友達になって行く。ギターを弾けるが音痴の加代は、カラオケで朗々と歌を唄う志乃の姿を見て「私と組もう」と提案するのだが…

 

【原作】

原作は押見修造さんの同名漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』です。

本作は2011年から2012年にかけて太田出版WEB連載空間『ぼこぽこ』に連載されていた作品で、単行本化されると大きな話題を呼び、ロングセラーとなりました。

押見先生自身も、学生時代に吃音症に悩まされていたそうで、この漫画は自身の実体験が下敷きになっているそうです。(押見修造と、本作の主人公・大島志乃のイニシャルがO・Sで一緒なのもおそらくそういった理由)

押見先生が喋りに不自由さを感じるようになったのは中学生の頃だったそうなのですが、それを「吃音」というものだと知るのはしばらく後のことだったといいます。

吃音は大きく2種類に分けられ、最初の音が連発して出てしまう「連発型」と、最初の音がうまく出てこない「難発型」があるそうです。押見先生は後者の難発型で、本作の主人公も「…………っ……お、……おお……」というように、最初の音がうまく出せない吃音者として描かれています。

 

【スタッフ・キャスト】

メガホンを取ったのは、本作が長編商業映画デビューとなる湯浅弘章監督です。

 

自主制作映画界出身の湯浅監督は、ぴあフィルムフェスティバルなどで多数の賞を受賞し、林海象監督や押井守監督のもとで助監督を務めてきた方です。

これまで多くのテレビドラマやミュージックビデオ手掛けてきた湯浅監督ですが、映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のルーツともいえる作品が、乃木坂46『大人への近道』のMVです。どちらも同じ沼津ロケの作品(映画とMVで同じ撮影場所もチラホラ)で、海沿いを歩くシーンやバスに揺られる少女たちなど、MVにあった印象的なショットが、映画にも盛り込まれています。なにより、少女たちの刹那的な輝きを捉えることに卓越した監督なので、本作に湯浅監督の起用したのは大英断だと思います。

本作の脚本を担当したのは、『百円の恋』や『嘘八百』などを手がけた足立紳。小説家としても精力的に活動している足立さんだけに、多少の脚色を交えながらも原作へのリスペクトがしっかり感じられる脚本に仕上がっていました。

主人公・志乃を演じたのは『幼な子われらに生まれ』などに出演した南沙良。まだまだキャリアの浅い新星ながら、吃音の少女という難しい役どころを見事に演じきり、堂に入った演技をしていました。特に心を鷲掴みにされたのは、彼女の中の演技で、華麗な泣き顔ではなく、顔じゅうをグシャグシャにしながら涙する姿に心を打たれました。

志乃の親友・加代を演じた蒔田彩珠の演技も大変素晴らしく、クールであまり感情を表に出さない加代がふとした瞬間に感情を露わにするメリハリの効いた演技でとても良かったです。

 

私見

96点/100点満点中

原作の世界観を壊さず丁寧に映像化し、漫画へのリスペクトが存分に伝わってくる作品になっていました。原作が大事にしていたテーマをうまく汲み取りつつ、改変された点や映画オリジナルで加えられたシーンも作品世界に広がりを持たせていました。

志乃と加代を演じた2人の演技も素晴らしく、彼女たちが仲良くはしゃぐシーンは何時間でも見ていたかったです。

劇中曲も、ストーリーとマッチしていて柔らかい歌声がとても耳心地良かったです。

 

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

 

【原作との比較】

映画版『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、原作に極めて忠実に作られており、プロットはもちろん、原作漫画の空気感まで見事に再現しています。

ストーリーの本筋はほぼ原作に沿って進むのですが、ラストシーンが原作と映画版で異なっています。

漫画では加代のライブと志乃の独白シーンの後、時制が数年後へ移動し、大人になった志乃が描かれます。大人になっても人とうまく話すことができない志乃ですが、結婚し家族が出来た彼女は、自分の娘にも支えられながら幸せそうに暮らしています。最後のコマには、志乃と加代と菊池が写った卒業式の写真が描かれ、3人仲良く高校生活を過ごしたことが示唆されます。

 対して映画版では、文化祭の数日後の3人の姿を描いており、ラストシーンは3人一緒ではなくそれぞれ別々の場所で高校生活を過ごしている様子が描かれています。原作と比べると少しほろ苦さも感じる終わり方ですが、最後のシーンで志乃がジュースをくれたクラスメイトに、どもりながらもしっかり「ありがとう」と言う姿が彼女の成長を表していました。 

後述しますが、志乃と加代が路上ライブを行い関係を深めていく様子が、原作よりも丹念に描かれていたのも好感が持てました。

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文化祭で加代が歌う劇中曲「魔法」は、漫画中でも歌われる、押見先生作詞のオリジナル曲ですが、漫画では文字だけで表現されていた曲にメロディがのることで、味わい深さが増していました。

また、原作中では“しのかよ”の歌う曲は「あの素晴らしい愛をもう一度」だけだったのですが、映画版では「翼をください」やミシェル・ガン・エレファントの「世界の終わり」、ザ・ブルーハーツの「青空」などの曲が加わっており、いずれも歌詞の内容が、志乃の心の内とシンクロするもので良かったです。

 

【原作からの改良点】

 前述の通り、映画版では志乃と加代が音楽を通して中を深めていく様子が原作以上に色濃く描かれています。

原作では“しのかよ”が路上ライブを行ったのは一度きりで、初めての路上ライブで運悪く菊池のその姿を見られてしまい、志乃が逃げ出したために、ライブはそれっきりになってしまいます。

一方映画版では、しのかよが路上ライブを成功させていく過程がとても丹念に描かれてています。ライブの成功と言っても、彼女たちの演奏に聴衆が沸き上がるようなものではなく、志乃が自分を表現できることに充足感と幸せを感じることができたという成功体験で、演奏を重ねるごとに志乃と加代の2人の世界が出来上がっていく様子が丁寧に紡がれています。故に、今まで知り合いには誰にも見せてこなかったライブ姿をよりによって菊池に見られた時の、自分たちの世界(もとい聖域)に踏み入れられた感が原作以上に増していました。

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映画版の菊池は、原作よりも学校内での浮きっぷりが増していて見ていられなくなるほど痛い奴になっています。志乃とベクトルは違えど、彼もまた人付き合いが得意でなく、孤独さを抱えた人間として描かれていました

映画版では、しのかよを辞め再び内にこもるようになってしまった志乃に、菊池が「空気消して、私なんかどこにもいませんよってフリして、ダセーよ、すげーカッコわりーよ」と喚くシーンが加えられています。志乃と同じ孤独な人間でありながら、彼女とは真逆の性質を持つ菊池だからこそ言えるなんとも彼らしいセリフでとても良かったです。

ラストシーンで一人弁当を食べる菊池の姿はなんとも切なかったですが、彼のような自分の行動を省みることが出来る人はきっとこの先幸せになれると思います。

 

【誰にでも当てはまる物語】

本作は吃音を題材にした物語ですが、原作内では「吃音」や「どもり」といった言葉が本編中に一切使われていません。これは押見先生が意図して演出したもので、映画版にもその精神が引き継がれています。

押見先生が作中で「吃音」という言葉を使わなかったのは、「とても個人的でありながら誰にても当てはまる物語になればいいなと思った」からだと言います。作者のその思いの通り、本作はとても普遍的で劣等感やコンプレックスを抱えている多くの人に当てはまる物語になっています。 

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かなり個人的な話になってしまいますが、筆者も吃音者ではないものの、志乃と同じようなコンプレックスを抱えています。私は慣れない人と話すとき、なぜか体中から汗が吹き出し、顔も服も汗でびしょびしょになってしまいます。本編中で志乃がクラスメイトの前で自己紹介をするシーン。言葉を発することが出来ず、周りから奇異の目で見られ、更に言葉が詰まっていく負のスパイラルは、自分が汗だくの姿を人に見られ、気持ち悪がられているんじゃないかと気になり、更に汗が吹き出してしまう悪循環そのもので、本当に心が痛くなりました。

私のような体質でなくても、自分に何かしらのコンプレックスを抱え、他人の目がどうしても気になってしまう人には絶対に刺さる部分のある作品だと思います。

 

【不完全だから】

他の人との会話が不自由な志乃ですが、彼女がコミュニケーションを不得手としているのは、ただ単に上手く喋れないからという理由だけではなく、友達との付き合い方が分かっていないからでもあります。志乃が加代の家で、歌を歌ってとせがんだとき、彼女は加代の音痴さに思わず吹き出してしまいます。加代に歌うようにお願いできるほど打ち解けていた志乃ですが、友達との距離間をちゃんとつかんでいなかったせいで、加代のコンプレックスを刺激し、自分がされて最も嫌なことを相手にしてしまったのです。このことを省みた志乃は、加代に「私、最低だ。喋れてもしゃべれなくても最低の人間だ」と謝罪します。

志乃のような形でなくとも、友達の距離の取り方を間違えて、人の心にズカズカと踏み込み相手を深く傷つけてしまうことは、誰もが経験したことがあると思います。志乃を心の美しい特別な人間として描かないことが、本作の大きな魅力でもあるのです。 

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志乃と加代は“しのかよ”というデュオを結成し、文化祭での演奏を目指して練習に取り組みます。

音痴がコンプレックスの加代と、人に何かを伝えることが苦手な志乃。欠点を抱えた似た者同士の二人だからこそ、加代がギターで演奏し、志乃が歌にのせて思いを表現するという、互いの欠点を補い合う理想的な関係が生まれたのだと思います。

 

【私を恥ずかしいと思っているのは…】 

 しのかよを結成してから充実した日々を送っていた志乃ですが、菊池がしのかよに加入することになってから加代との間に溝を感じてしまうようになってしまいます。

菊池と加代が仲良くなるに連れて志乃が感じていく疎外感は、1対1だと饒舌に話せるのに3人以上で話すとなると孤独感を感じてしまうコミュニケーション得意じゃない人あるある過ぎて、胸が締め付けられました。

加えて菊池は、始業式の自己紹介の際、言葉に詰まる志乃を揶揄した人間でもあるため、彼女の中にはそのトラウマが染みついています。菊池と二人になったとき、彼から謝罪されても志乃は受け入れることが出来ず、変わることのできない自分に対しての苛立ちから、さらなる自己嫌悪に陥ってしまいます

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そんな中迎えた文化祭。しのかよで立つはずだったステージに、加代が一人で立ち、オリジナル曲「魔法」を熱唱します。音痴がコンプレックスだった加代ですが、彼女は観客から冷ややかな視線を浴びながらも、自分を表現し、最後まで歌い上げます。

これまで自分の気持ちを表す事を恐れ、思いを胸の内に押し殺していた志乃でしたが、臆せず歌う加代の姿を見て「私は自分の名前が言えない!」と初めて自分の苦しみを大勢の前で告白します。

志乃は「私をバカにしてるのは、私を笑っているのは、私を恥ずかしいと思っているのは、全部私だから」と自分の弱さを打ち明けます。

路上ライブから逃げだし、菊池のことを受け入れられず、文化祭のステージにも上がれなかった志乃。色々な事から逃げ、彼女をがんじがらめにしていたのは、彼女の事を笑う人以前に、人から笑われることに怯える彼女自身だったのです。

そして彼女は「私はおっ…お…大島志乃だ。これからもずっと私なんだ。」と宣言します。これまで、恥ずかしさから喋る事を避けていた彼女が、初めてうまく喋れない自分自身を肯定したのです。

そして、文化祭から数日後。志乃はジュースをくれたクラスメイトに「ありがとう」と、苦手なあ行から始まる言葉を、詰まりながらもきちんと言います。傷つく事を恐れ喋る事を諦めていた志乃は、ささやかながらも確かに一歩踏み出していました。