雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『窮鼠はチーズの夢を見る』と原作漫画「窮鼠はチーズの夢をみる」&「俎上の鯉は二度跳ねる」(ネタバレあり)

今回紹介する作品は『窮鼠はチーズの夢を見る』です。 

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あらすじ

 優柔不断な性格ゆえに、流されるがまま不倫を繰り返してきた会社員・大伴恭一。そんな彼の務めるオフィスに、大学時代の後輩・今ヶ瀬渉が現れる。興信所の浮気調査員として恭一の妻から不倫の調査依頼を受けていた今ヶ瀬は、恭一に不倫現場を抑えた写真を突きつけ、浮気の事実を隠蔽する代わりにカラダの関係を要求する。最初は抵抗したものの、やむを得ず今ヶ瀬の要求に応える恭一。これで家庭の平穏は保たれたかと思ったが、恭一は妻から一年前から付き合っている男がいることを明かされ、別れを切り出される。こうして独身となった恭一は一人暮らしを始めることとなるが、恭一の家には今ヶ瀬が転がり込むようになり…

 

原作

原作は、水城せとなの同名漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』とその続編『俎上の鯉は二度跳ねる』です。

 水城せとな先生は、『失恋ショコラティエ』や『脳内ポイズンベリー』など、恋愛作品を多く手掛けており、人が人を愛するときの、喜びや痛み、苦しみを繊細な心理描写で描き出す天才作家です。

 水城先生は少女漫画誌からレディースコミック、更には青年誌まで、幅広い雑誌で活動してきた作家で、読者の共感を呼び起こす作家性から、多くのファンを獲得してきました。

 小学館講談社集英社などあらゆる出版社で連載を持った経験があり、各社から引っ張りだこの超人気作家です。少年誌で例えるなら、ジャンプでもサンデーでもマガジンでも連載経験がある漫画家といったところですね。

 本作は小学館コミック誌『Judy(現在休刊中)の増刊号『NIGHTY Judy』に連載されていた作品です。『NIGHTY Judy』はリアルな性愛描写があるのが特徴の女性向けコミック誌で、本作も同性同士のセックス描写が微細に描き込まれており、性交中の体位からも、二人の関係性の変化が読み取れるようになっています。

 ただ、今発刊されている『窮鼠~』と『俎上の鯉~』のコミックスは、最初に刊行されたバージョンから修正が加えられており、性描写がややマイルドになっているそうです

 

スタッフ・キャスト

本作のメガホンをとったのは『世界の中心で愛を叫ぶ』や『ナラタージュ』の行定勲監督です。

 人を愛することでどうしようもなくなっていく人間の悲喜を描き続けてきた行定監督だけあって、本作のテーマと監督の作家性がぴったりはまっていたと思います。また原作にあったリアルな性描写も、曖昧な表現やカットに逃げることなく、しっかりと映像化しており、とても好感が持てました。

 脚本を担当したのは『ナラタージュ』や『真夜中の5分前』でも行定監督とタッグを組んだ堀泉杏。本作の映画化の話はこれまでにもあがっていたそうなのですが、映像化にあたって、原作のストーリーから「キラキラ美化」された物語に改変されていたら、水城先生が映画の制作を断っていたそうです。そんな水城先生をも納得させるストーリーに仕上げたのは、脚本家の手腕と言えるでしょう。

 主人公・大伴恭一を演じたのは大倉忠義。優柔不断で、吹けば飛びそうなほど自分のない男をしっかり演じており、大倉さんが演じる主人公のどこに転がるかわからない心許なさが、作品の面白さを増幅させてていました。男性とのキスは舞台「蜘蛛女のキス」でも経験があったそうなのですが、本作の濡れ場ではかなり体を張っていて、そこまでやるんだ!と感嘆させられました。

 そして恭一のことを想い続ける後輩・今ヶ瀬を演じたのは、成田凌。恭一に必死に尽くそうとする犬っぽさと、突然フッといなくなってしまいそうな猫っぽさの両方を持ち合わせた見事な演技で、正直メチャクチャかわいかったです。

この2人のキャスティングは、まさにBLの一昔前の呼び名である「耽美」を体現していたと思います。

 

私見

75点/100点満点中

 本筋は原作のストーリーをきちんと準えながらも、映画版オリジナルのラストシーンは原作以上に切なさが増しており、良い味わいの映画に仕上がっていました。言葉で多くを語らせない演出も冴えていて非常に良かったです。

何より主演二人がイチャイチャする様を眺めているだけで眼福でした。

 原作コミックにあったハードな性描写もしっかりと踏襲しており、作者へのリスペクトも感じられました。

 ただ、個人的に好きな原作のキャラクターが映画版ではかなり嫌な感じに描かれていたのが引っ掛かりました。

 

 

 

以下ネタばれあり

 

 

 

 

原作との比較

 原作ではモノローグで主人公の葛藤や心情の変化などが描かれているのですが、映画版はモノローグによる心情描写はなくし、説明過多になり過ぎない絶妙なバランスで作られています。原作の詩的な心情表現や、恭一の心の中で黒恭一と白恭一が言い争うシーンも好きなのですが、心情を表現しすぎない映画版の演出は、コミックと映画という媒体の違いをきちんと理解し、丁寧に映像化しているように感じられました。

 

 映画版は多少の省略や改変はあるものの、大筋は原作のストーリーに沿って進みます。原作からは、恭一が同窓会で再会した同級生と関係を持ってしまう展開や、今ヶ瀬と別れた恭一が、たまきの前で涙を見せてしまうシーンなどが端折られていましたが、原作既読者から見ても違和感のない再構成になっていたと思います。

 原作から最も大きな改変が加えられていた点は、恭一と今ヶ瀬が別れた後の展開です。

 原作には恭一の新しい恋人となったたまきがストーカー被害に悩まされ、今ヶ瀬に調査を依頼するという展開があります。たまきがストーカーに襲われケガを負い、恭一が病院に駆けつけると、そこに居合わせた今ヶ瀬と再会を果たします。恭一と二人きりになった今ヶ瀬は、思いの丈を涙ながらににぶつけ、そんな今ヶ瀬が愛おしくなった恭一は、唇を奪い、再び体を交わします。そして、たまきに別れを告げる決意をするというのが原作の流れです。原作では、ケガを負ったたまきに恭一が別れを告げることで、彼が情に流されなくなったことを表していましたが、いくらなんでもたまきが可哀想だろうと思っていたので、ここをカットしたのは個人的には英断だと思いました。(フラれたたまきが気丈にふるまう原作のシーンも泣けるのですが…)

 たまきに別れを告げた後、恭一が家に帰ると、今ヶ瀬は消え去っており、ごみ箱には二人が共に過ごした証である灰皿が捨てられていました。原作では、今ヶ瀬がバスで去ろうとしたところに恭一が現れ、「男ならいい加減腹くくれよ、こっちはもうとっくにくくったぞ」と自分の覚悟を伝えます。二人は再びヨリを戻しますが、両者ともこの関係が永遠に続くものだとは思っておらず、いつか来るかもしれない終わりに向けて、二人の恋が続くことが示唆されます。

 対して映画版では、二人はヨリを戻しておらず、今ヶ瀬は他の男に抱かれながら恭一を思い涙を流し、恭一は一人になった部屋で今ヶ瀬が帰ってくることを信じてただ待つ様子が描かれてます。原作とは対極的な終わり方ですが、原作よりも切なさが増した映画版のラストシーンも好きでした。

 

 あと、些細なシーンですが、二人がが乳首あてゲームでじゃれ合う映画版オリジナルのシーンも良かったです。

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 不満点

  恭一をめぐって、元カノの夏生と今ヶ瀬がいがみ合うシーンは原作にもあるのですが、原作にあった大事なシーンをカットしたことで、夏生がただの嫌な女として描かれているのが気になりました。

 原作では、恭一が夏生を選んだ次の日、今ヶ瀬は同居していた家を立ち去り、連絡もつかなくなってしまいます。恭一はそのことを夏生に話し「どんだけ粘ってもやらせなかったから、あいつもさすがにアホらしくなったんじゃないか」「ノーマルな男を食ってみたかっただけだろうな」などと自分の虚しさをごまかすために、今ヶ瀬を貶めた物言いをしてしまいます。そんな恭一に対し、夏生は「今ヶ瀬はそんな子じゃないよ」とキッパリ言い放ちます。こんな良いシーンがあったのに映画版では丸々カットされていました。

 夏生は今ヶ瀬にとっての恋敵ではあるものの、決して性悪な女ではないので、映画内での一面的な描かれ方はかなり不満でした。(原作コミックの巻末には、今ヶ瀬と夏生が互いの近況を語り合い、恋バナに花を咲かせる後日譚も描かれていたりしています。)

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  今ヶ瀬と別れた恭一がゲイバーに行くシーンは、映画版オリジナルのものです。今ヶ瀬を失った恭一の喪失感が表れたシーンではあるのですが、恭一に声をかけてくるゲイバーの客の描かれ方があまりにもステレオタイプすぎて、ゲイの方への偏見を助長しかねない気がました。こんなシーンでなくても、恭一の喪失感は描けると思うので、他にやりようがあったのではないかと思います。

 

好きになる理由

 優柔不断な性格の恭一は、流され侍というあだ名をつけられるほど主体性のない男です。恭一自身も自分が立派な人間ではないことを自覚しており、「俺はお前がこだわるような男じゃない」と今ヶ瀬に言いますが、今ヶ瀬は「見た目が綺麗で、人間ができていて、自分にいい思いをさせてくれる。そんな完璧な人をみんな探してると思ってるんですか?」と言い返します。このセリフの通り、今ヶ瀬が恭一に抱く慕情は、理屈では言い表せないものです。

 今ヶ瀬が恭一を愛する理由は説明の難しいものですが、映画版では恭一が時折とるさりげない言動に、今ヶ瀬が惚れてしまってもしょうがないと思わせる演出がなされています。テレビを見ながらふいに今ヶ瀬の髪をなでたり、今ヶ瀬が咥えているタバコを取ってごく自然な流れで間接キスしたりと、些細な行動ではありますが、ちゃんと恭一が今ヶ瀬のことを受け入れていることが伝わる演出が加えられていました。

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中途半端だから残酷

 周囲に流されるがままに生きてきた恭一は、今ヶ瀬にじわじわと流され、自分の性的指向でないにもかかわらず同性同士で体の関係を持ってしまいます。本来同性愛者ではない恭一にとって、今ヶ瀬は恋人になりえないので、恭一が今ヶ瀬を拒絶してしまえば、二人の関係は終わるのですが、二人で過ごす時の居心地よさや、今ヶ瀬が自分のことを好いてくれているという情から、恭一はその関係をズルズルと続けていきます。

 恭一の優柔不断な性格は、自ら決断しないことで自分の逃げ道を確保してきた小狡さと、相手を拒絶することで傷つけたくないという優しさの二つの面があります。しかしその中途半端さが、恋人にも他人にもなれない今ヶ瀬を苦しめるのです。

 苦しい思いをずっと抱えながら過ごしてきた今ヶ瀬は、恭一とたまきが良い関係になっているのではないかと不安に駆られ、恭一に「貴方じゃだめだ…」言ってしまいます。そして二人は一度別れることとなります。

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  恭一の優柔不断な性格が変化していく様子が分かるのが、セックス中の体位です。最初は、なされるがままに今ヶ瀬に体を貪られていた恭一ですが、二人の関係が深まっていくと、今ヶ瀬に挿入を許すようになり、二人がヨリを戻した後は、恭一自ら今ヶ瀬に挿入するようになります。

 このように、セックス中の体位で恭一が徐々に主体性を持ち始めていく様が描かれており、ずっと受け身だった恭一が、攻めに転ずる姿は、優柔不断な性格から脱却し、今ヶ瀬と生きてくことを決めた決意表明のように感じられました。

 

恋愛は業だ

  一度は今ヶ瀬と別れ、たまきと円満な家庭を築こうとしていた恭一でしたが、結局はお互い離れることができず今ヶ瀬と再び関係を持ってしまいます。

 原作漫画には、恭一が心の中で「恋愛は業だ」と呟くセリフがあります。このセリフは、今ヶ瀬のことが手放せないと悟り、婚約者のたまきに別れを告げることを決めた恭一の押し潰されそうな胸の内を表したセリフです。たまきを愛しているという気持ちに偽りはないものの、それでも今ヶ瀬のことを選んでしまう恭一の苦悶する心情が描かれています。

 対して映画版では、原作コミックとは少し違った形で「恋愛の業」が描かれています。映画版の恭一は原作よりも、たまきへの愛が薄いように感じられます。たまきと一緒にいても心ここにあらずで、別れたはずの今ヶ瀬と惰性のように関係を続けます。映画版で描かれる恋愛の業とは、傷つくことと傷つけることを分かっていながら、どうしても離れられない人間のどうしようもなさです。

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 今ヶ瀬と離れられないと悟った恭一は、ついにけじめをつけ、たまきに別れを告げます。しかし、家に戻ると今ヶ瀬はいなくなっていました。

 昔、恭一が今ヶ瀬との関係に溺れるのを恐れていたように、今ヶ瀬もまた恭一への恋心に溺れていくことを恐れていたのです。これから先、数え切れないほど苦しい思いをすることは、今ヶ瀬自身がよく分かっていて、このままだと自分が壊れてしまうと思い、今ヶ瀬は恭一のもとから去ることにしたのです。

 恭一は、一人になった部屋で、今ヶ瀬のことを想いながら、彼の帰りを待ちます。いつか今ヶ瀬が振り向いてくれることを信じ、かつて今ヶ瀬が恭一のことを想っていたように…

映画『コリーニ事件』と原作小説「コリーニ事件」(ネタばれあり)

今回紹介する映画は『コリーニ事件』です。

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あらすじ

 弁護士事務所を開設して3ヶ月ほどの新米弁護士カスパー・ライネンは、経済界の大物実業家を殺害したファブリツィオ・コリーニという男の国選弁護人を引き受ける。しかし、この事件で殺害された被害者は、ライネンの少年期に、よくを面倒を見てくれた親友の祖父ハンス・マイヤーであった。ライネンは公職と私情の間で揺れながらも、コリーニの弁護をすることを決める。しかし、容疑者であるコリーニは殺害の動機について黙して語らないため、動機のない謀殺による殺人として、ドイツの法律で最も重い終身刑が求刑されようとしていた。果たしてライネンはコリーニの動機を突き止め、事件の真相を暴くことが出来るのか…

 

原作

原作はフェルディナント・フォン・シーラッハの同名小説『コリーニ事件』です。 

 原作者のシーラッハ氏は、1994年から刑事事件専門弁護士として活躍する現役の弁護士です。デビュー作となる短編集「犯罪」でドイツのクライスト賞を受賞し、2作目となる『罪悪』もベストセラーとなり、3作目にして初の長編作品となったのが本作『コリーニ事件』です。

弁護士としての経験に裏付けされた法廷の描写は実に細かく描かれており、物語のリアリティを際立たせています。

 

もしかすると、シーラッハという名前に聞き覚えがある方もいるかもしれませんが、作者はとても特徴的な出自の作家です。しかし、その出自自体が本作のネタバレに触れかねないものなので、後述します。

 

スタッフ・キャスト

本作のメガホンをとったのはマルコ・クロイツパイントナー監督です。 

クラバート 闇の魔法学校 [DVD]

クラバート 闇の魔法学校 [DVD]

  • 発売日: 2010/07/02
  • メディア: DVD
 

 クロイツパイントナー監督は2003年『BEAKING LOOSE』で長編映画デビューを果たし、2004年『サマー・ストーム』でミュンヘン国際映画祭の観客賞を受賞。2008年に公開された『クラバート 闇の魔法学校』は その年にドイツで最もヒットした作品の一本となりました。シリアスな人間ドラマも大衆性のある娯楽作品も作れるオールマイティな監督といえます。本作はシリアスなテーマの作品ですが、新米弁護士が奔走する様はコミカルさもあり、緩急のメリハリがしっかりしていて監督の手腕を感じさせました。

 

 主人公ライネンを演じたのは『THE WAVE ウェイヴ』や『ピエロがお前を嘲笑う』に出演していたエリアス・ムバレク。弁護士役を演じるにあたって、刑事訴訟法を諳んじて言えるほどまで勉強したそうで、法廷において弁護士がやることとやらないことを完璧に理解し、完全に会得していたそうです。また、彼はシーラッハ作品の大ファンだそうで、作品中に出てくるシガレットケースは、シーラッハに初めて会ったときにもらったものだそうです。

 

 事件の容疑者コリーニを演じたのは、『続・荒野の用心棒』や『ジョン・ウィック:チャプター2』などの名優、フランコ・ネロ。監督が個人的に手紙を送ってまで出演を熱望しただけあって、少ないセリフ量にも関わらず、重厚な演技によって圧倒的な存在感を示していました。

 

私見

85点/100点満点中

 原作小説で描かれていたドイツの暗部を丹念に映像化しつつ、映画的なエモーショナルさを際立てた改変もあり、非常に良い脚色がなされていたと思います。

原作小説を読んだ人だとクライマックスの法廷シーンの改変が賛否分かれるかもしれませんが、法治国家が持つ不合理性を鋭く突き立ててくる演出として、個人的には好きな改変でした。

ただ、主人公の元恋人であるヨハナの描かれ方に関しては、少し首をひねってしまう部分がありました。

 

 

 

 

以下ネタばれあり

 

 

 

 

原作との比較

本作は、原作のストーリーを基本的にはなぞっていますが、細かい部分に改変が加えられています。

まず、主人公の出自が原作と異なっています。原作では、主人公の父親は上流階級の資産家で、ライネンに弁護士事務所用のデスクをプレゼントしていたりと、親子関係はかなり良好に描かれています。対して映画版での父親は、書店を営むごく平凡な男で、ライネンの少年期に、彼と母を捨て家を出た人物に改変されています。この改変により、父に捨てられたライネンにとってハンス・マイヤーが父親同然の存在だったことが際立ち、実の父が息子の仕事をサポートし関係を修復させていく展開も、本作に通底する「父と子の物語」というテーマを、より深みのあるものにしていました。

また、原作でドイツ人女性だったライネンの母親は、映画版ではトルコ人女性に改変されています。映画中でライネンが「トルコ人!」とからかわれるシーンもあり、程度の差こそあれ、彼もコリーニと同じように迫害の受けていた社会的弱者であることが示されています。そのため、下流階級出身の主人公が巨大な国家の闇に立ち向かうという、ドラマ性が増強されていました。

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 本作の中で最も大きな改変といえるのが、ハンス・マイヤーの遺族の公訴代理人のマッティンガーの描かれ方です。原作では法治主義を重んじる普通の弁護士だったマッティンガーが、映画版ではドレーアー法の草案に関わった人物に改変されています。クライマックスのマッティンガーが証言台に立つ展開は映画版オリジナルのものです。現実世界では裁かれることのなかったドレーアー法草案者に、自分の過ちを認めさせる展開は、架空の話で溜飲を下げるためのシナリオともとれるので、賛否分かれそうな改変ですが、この法律がいかに不条理なものかを際立て、映画としてのエモーショナルさも高まっているので個人的には嫌いではないです。

 

ライネンが事件の調査のためにイタリアのモンテカティーニに向かう展開も映画オリジナルのもので、通訳として引き連れるピザ屋のアルバイト・ニーナも、映画版オリジナルのキャラクターです。実際に虐殺が行われた地を訪れることで、悲惨な歴史を鮮明に映し出し、より心に迫る画になっていました。また、ニーナの存在によって、シリアスなドラマの中に程よい和らぎが生まれていたので、良いオリジナルキャラクターだったと思います。

 

不満点

 ハンス・マイヤーの孫で、かつてライアンと恋仲にあったヨハナは、先人たちの過ちを現代を生きる我々がどう受け止め、これから先を生きて行けば良いかを示す重要なキャラクターです。

原作では、ホルガー・バウマンというマイヤー機械工業の法律顧問が、ライアンに対し、コリーニの減刑に協力する代わりに陳述をやめるよう求め、大きな事件の弁護をライアンに回してあげようと持ち掛けるのですが、後にそのことを知ったヨハナはバウマンをクビにします。

 対して映画版でのヨハナは、祖父がナチスの司令官だったことを知って、ショックを受けるものの、その夜にライアンを食事に誘い、それに対してライネンから裏があるのではないかと指摘されると、逆ギレし「祖父がいなければ、あなたは今頃ケバブ屋の店員よ」と差別的な言葉を吐き捨てます。原作にも、ヨハナがライアンに「どうして何もかも壊そうとするの?」と問いかけるシーンはあるのですが、ライアンにひどい言葉を浴びせたり、激昂したりはしていません。

真実に誠実であろうとした原作のヨハナと比べると、映画版では彼女が卑怯でヒステリックなキャラクターに見え、少し不満に感じてしまいました。 f:id:nyaromix:20201010151837j:plain

 映画版は、父子の物語に焦点を当てるために、コリーニが抱えるナチスへの遺恨が、父を殺されたことのみになっていましたが、原作ではコリーニの過去の心的外傷がより深く描かれています。

 原作にはコリーニの姉がドイツ軍の兵卒に強姦される描写があり、その現場を目の当たりにしたコリーニが叫び声をあげてしまい、驚いた兵卒が拳銃を抜いたところ姉と揉み合いになり、姉が射殺されてしまうという忌まわしい過去が描かれています。姉が犯されるシーンを入れると、センシティブさや観る側のキツさが増してしまうのは分かりますが、戦争がもたらす人間の醜行を伝えるために、このシーンも映画内で描いてほしかったです。 

 

 

 ナチスパルチザン

 ナチス時代の悲劇を描いた作品といえば、ユダヤ人への迫害や虐殺を扱ったものが多いですが、本作では1940年代にドイツとイタリアの間で起きた事件を扱っていています。

 1943年、勢力を強めるナチスにイタリアが降伏し、イタリア国内には多くのドイツ軍人が派遣されていました。イタリアの反ファシズムの非正規軍パルチザンは、祖国解放のためにドイツに徹底抗戦しましたが、ナチスの暴虐は凄まじいものでした。

 本作は実話ではないものの、モデルとなった事件や人物が存在します。本作に登場するナチスの司令官ハンス・マイヤーのモデルとなったのは、第二次世界大戦中に親衛隊保安部ジェノヴァ管区司令官だったフリードリヒ・エンゲルです。エンゲルは、司令官在任中の1944年に、パルチザンによるテロへの報復として、イタリア人59人の射殺命令を出し、「ジェノヴァの死刑執行人」や「ジェノヴァの殺人鬼」などと呼ばれました。

 エンゲルは、2002年にハンブルグで行われた裁判で殺人の罪により禁固7年の刑に処されたものの、2004年に行われたドイツ最高裁判所の判決では、すでに時効が成立していることや高齢による健康状態を理由に有罪判決が棄却されてしまいました。

 本作はこのような事実をもとに作られた物語なので、フィクションでありながら現実と地続きのように感じられる真に迫った作品になっています。

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法治国家に見捨てられた人々

 本作を語るうえで最も重要なキーワードが、1968年に発布された、秩序違反施工法とそれにともなう一部の法改正、通称『ドレーアー法』です。

 ドイツ刑法では殺人事件が起きた場合、欲・快楽・人種憎悪などの低劣な動機による”謀殺罪”と、謀殺のような心理的傾向に基づかない”故殺罪”とに大別します。謀殺罪が成立した場合、死刑廃止国のドイツでは最も重い終身刑が科されます。旧来のドイツ刑法では、謀殺罪のほう助者においても、共犯が成立するとみなされてきました。優生思想や見せしめのための虐殺などは、本来であれば謀殺罪として裁かれるべきなのですが、ドレーアー法の制定により、命令に従って殺人を犯したほう助者は故殺罪として減刑されることとなりました。つまり、ヒトラー、ヒムラ―、ハイドリヒなどの最高指導部の人間は謀殺罪として扱われるものの、それ以外のナチ党員たちは命令に従っただけの者とみなされたのです。さらに、謀殺罪と故殺罪では時効成立までの期間が異なるため、故殺罪扱いとなったほう助者たちは、その多くが時効成立により実刑を免れました。

 この法律を作ったエドゥアルド・ドレーアーは、元ナチ党員で、インスブルック特別法廷の筆頭検事時代には、食糧品の窃盗犯に死刑を求刑したことなどで知られています。戦後、西ドイツ法務省に入省した彼は、ドイツ刑法の改正に多く関わり、1968年にドレーアー法の草案を作成しました。建前上は、学生運動に関わり犯罪行為を犯した若者の救済でしたが、その実態は元ナチ党員たちへの狡猾な恩赦でした。そのため、法治国家であるにもかかわらず、人々を守るための法が、被害者たちを救ってくれないという歪んだ結果を生んでしまったのです。

映画内では、ドレーアー法の草案に関わったマッティンガーが過ちを認め、この法律の不条理性が炙り出されます。それは、ドレーアー法によりハンス・マイヤーを告発する機会を奪われたコリーニが、人生で唯一正義というものに触れた瞬間でした。その夜、コリーニは自らの手で命を絶ちます。彼にはハンス・マイヤーへの制裁だけが生きる意味であり、法廷でマイヤーの過去や歪な法律が全て剔抉されたことで、人生の目的がみな果たされたのです。 

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君は君だ 

 法廷で実の祖父がナチスの司令官だったことが白日のもとに晒されたヨハナは、これから先すべてを背負って生きていかなければいけないのかライネンに問いかけます。そんなヨハナにライネンは「君は君だ」と答えます。このやり取りは原作者であるシーラッハの思いが特に込められているシーンです。

 原作者フェルナンド・フォン・シーラッハの祖父はバルドゥール・フォン・シーラッハというナチ党全国青少年指導者(いわゆるヒトラーユーゲントの指導者)で、ウィーン大管区指導者などを歴任したナチ独裁政権の中心人物の一人です。のちにバルドゥールは、ニュルンベルク裁判にかけられ、禁固20年の刑に処されます。祖父であるバルドゥールが刑期満了で釈放されたとき、孫のフェルナンドはまだ2歳で、祖父と別居するまでの4年間毎日一緒に散歩し、よく遊んでいたそうです。何も知らない幼少期のフェルナンドにとっては、バルドゥールはごく普通の好好爺でした。しかし、フェルナンドが12歳のときはじめて祖父が戦争犯罪者であることを知ります。学生時代はその出自のせいでひどい吊し上げにもあったそうです。

 『コリーニ事件』はそんな作者だからこそ描けた物語であり、「君は君だ」という言葉には、戦争犯罪者の子孫だからといって肩身の狭い思いをする必要はない、大切なのは過去の間違いを繰り返さないことだと、いう想いが込められています。

 シーラッハが『コリーニ事件』を出版し、大ベストセラーとなってから数か月後の2012年1月、ドイツは法務省内に「ナチの過去再検討委員会」設置しました。この委員会の立ち上げにはこの小説が大きく影響を与えたといわれています。

 先人たちの過ちを無かったことにすることは出来ないが、現代を生きる我々が正しい行いをすることで、これから先の未来を変えていける。そう感じさせてくれる作品でした。

映画『スターリンの葬送狂騒曲』と原作コミック『La Mort de Staline』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は

映画スターリンの葬送狂騒曲です。

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【あらすじ】

1953年、ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリン脳出血により危篤状態に陥った。すぐに側近たちが邸宅に集められるが、皆一様にスターリンの後釜を狙い、色めき立っていた。そんな中スターリンの補佐役で一番の腹心あったマレンコフが書記長職の代理を務めることになり、マレンコフと手を結んでいたNKVD警備隊トップのベリヤが第一副議長の座を手に入れる。ナンバー2に成り上がったベリヤは、マレンコフを裏で操り権力を振るおうと目論むが、第一書記長のフルシチョフはベリヤに出し抜かれたことが気に入らず、権力者の座を奪取しようと狙っていた…

 

【原作】

原作はファビアン・ニュリ作、ティエリ・ロバン画グラフィックノベル『La Mort de Staline』です。  

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

 

 ↑映画の公開に合わせて邦訳版が映画と同名タイトルでリリースされています。

本作はフランスで出版されたコミックで、いわゆるバンド・デシネと呼ばれる類の作品です。

作者のファビアン・ニュリは、ナチスが開発した吸血鬼兵器を描いた物語『我が名はレギオン』や、移民のユダヤ人少年がパリの暗黒街を牛耳っていく様を描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・フランス』などのシナリオを手掛け、世界的権威のあるアングレーム国際漫画賞などを受賞してきた鬼才です。

ニュリ氏は祖父の家でスターリンに関する書籍を発見したことがきっかけで、スターリンの死後の権力闘争に興味を持ったそうです。最初は重たい政治スリラー作品になると思っていたのに、調べていくうちにその実情があまりに馬鹿馬鹿しかったことを知り、恐怖を感じる同時に笑いもしてしまったそうです。作者自身この時のことを、ジョン・ル・カレ作品やロバート・ラドラム作品のような作風を目指していたのに『博士の異常な愛情』のような作品のネタになるものを見つけてしまった」と語っているほどです。

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンを取ったのはアーマンド・イアヌッチ監督です。  

In The Loop [Import anglais]
 

 イギリスの国際開発大臣の失言により英米間で混乱が起こって行く様を描いた映画『IN THE LOOP』や、アメリカの女性副大統領の奮闘を描いたドラマ「Veep/ヴィープ」など、政治界のヒリヒリした人間関係を面白おかしく描くことに定評のあるイアヌッチ監督だけに、政治劇でもある本作への起用は彼の資質にピッタリあっていたと思います。

  本作のメインキャラクターとなるフルシチョフを演じたのはスティーブ・ブシェミ。実際のフルシチョフにはあまり似てはいないのですが、スターリンの前での道化っぷりや、権力の座を狙う狡猾さが、熟練の演技で巧みに表現されていました。ブシェミといえばハリウッド随一の殺され役者としても有名ですが、果たして本作で彼は生き残るのか、はたまた亡くなってしまうのかはは是非映画を見て頂きたいです。(史実を知っていれば分かりきったことですが)

フルシチョフと対立するベリヤを演じたのはサイモン・ラッセル・ビールシェイクスピア俳優として知られる名優だけに、極めて下劣で最低野郎のベリヤを演じるのにはかなりギャップを感じたのですが、悪漢で憎たらしいベリヤを見事に演じていました。出演者の中でベリヤが一番、史実に近いビジュアルだったと思います。

 

私見

84点/100点満点中

原作コミック以上にコメディ要素を強めた本作は、登場人物の殆どが滑稽なキャラクターとして描かれています。ただ滑稽と言っても、間が抜けているというわけではなく、政敵の失脚や民衆からの人気取りを目論んだ結果、思いもよらぬ方向へと事が転がっていき、狼狽する人間の滑稽さが描かれています。(マレンコフは完全に間の抜けたキャラクターとして描かれていましたが…)彼らの権力闘争の影で犠牲になった人々の姿もきちんととらえており、馬鹿馬鹿しい物語でありながら、作り手がとても誠実に作っている印象を受けました。

半世紀以上前の事件がベースとなった物語ですが、現代にも通ずる鋭い皮肉が効いていて、笑える部分とゾッとする部分が絶妙な塩梅で両立していました。

 

 

 

以下ネタバレあり 

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映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』と原作漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は、

映画志乃ちゃんは自分の名前が言えないです。

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 【あらすじ】

人と喋ろうとするとどうしても言葉が詰まってしまう少女・大島志乃。彼女はこの春から高校一年の新学期を迎えようとしていた。人前で上手く話すことの出来ない志乃は、新しいクラスで上手く自己紹介が出来ず、 みんなの笑い者になってしまう。友達も出来ずひとりぼっちの志乃だったが、ひょんなことからクラスメイトの加代と知り合い、友達になって行く。ギターを弾けるが音痴の加代は、カラオケで朗々と歌を唄う志乃の姿を見て「私と組もう」と提案するのだが…

 

【原作】

原作は押見修造さんの同名漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』です。

本作は2011年から2012年にかけて太田出版WEB連載空間『ぼこぽこ』に連載されていた作品で、単行本化されると大きな話題を呼び、ロングセラーとなりました。

押見先生自身も、学生時代に吃音症に悩まされていたそうで、この漫画は自身の実体験が下敷きになっているそうです。(押見修造と、本作の主人公・大島志乃のイニシャルがO・Sで一緒なのもおそらくそういった理由)

押見先生が喋りに不自由さを感じるようになったのは中学生の頃だったそうなのですが、それを「吃音」というものだと知るのはしばらく後のことだったといいます。

吃音は大きく2種類に分けられ、最初の音が連発して出てしまう「連発型」と、最初の音がうまく出てこない「難発型」があるそうです。押見先生は後者の難発型で、本作の主人公も「…………っ……お、……おお……」というように、最初の音がうまく出せない吃音者として描かれています。

 

【スタッフ・キャスト】

メガホンを取ったのは、本作が長編商業映画デビューとなる湯浅弘章監督です。

 

自主制作映画界出身の湯浅監督は、ぴあフィルムフェスティバルなどで多数の賞を受賞し、林海象監督や押井守監督のもとで助監督を務めてきた方です。

これまで多くのテレビドラマやミュージックビデオ手掛けてきた湯浅監督ですが、映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のルーツともいえる作品が、乃木坂46『大人への近道』のMVです。どちらも同じ沼津ロケの作品(映画とMVで同じ撮影場所もチラホラ)で、海沿いを歩くシーンやバスに揺られる少女たちなど、MVにあった印象的なショットが、映画にも盛り込まれています。なにより、少女たちの刹那的な輝きを捉えることに卓越した監督なので、本作に湯浅監督の起用したのは大英断だと思います。

本作の脚本を担当したのは、『百円の恋』や『嘘八百』などを手がけた足立紳。小説家としても精力的に活動している足立さんだけに、多少の脚色を交えながらも原作へのリスペクトがしっかり感じられる脚本に仕上がっていました。

主人公・志乃を演じたのは『幼な子われらに生まれ』などに出演した南沙良。まだまだキャリアの浅い新星ながら、吃音の少女という難しい役どころを見事に演じきり、堂に入った演技をしていました。特に心を鷲掴みにされたのは、彼女の中の演技で、華麗な泣き顔ではなく、顔じゅうをグシャグシャにしながら涙する姿に心を打たれました。

志乃の親友・加代を演じた蒔田彩珠の演技も大変素晴らしく、クールであまり感情を表に出さない加代がふとした瞬間に感情を露わにするメリハリの効いた演技でとても良かったです。

 

私見

96点/100点満点中

原作の世界観を壊さず丁寧に映像化し、漫画へのリスペクトが存分に伝わってくる作品になっていました。原作が大事にしていたテーマをうまく汲み取りつつ、改変された点や映画オリジナルで加えられたシーンも作品世界に広がりを持たせていました。

志乃と加代を演じた2人の演技も素晴らしく、彼女たちが仲良くはしゃぐシーンは何時間でも見ていたかったです。

劇中曲も、ストーリーとマッチしていて柔らかい歌声がとても耳心地良かったです。

 

 

 

以下ネタバレあり

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映画『ワンダー 君は太陽』と原作小説『ワンダー Wonder』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は

ワンダー 君は太陽です。

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 【あらすじ】

遺伝子疾患により人とは違った顔を持つ少年、オーガスト。27回もの手術を行い、今まで自宅でしか勉強をしたことがなかったオーガストだったが、母・イザベルの決意により、5年生の初日から学校へ通うこととなった。初登校の日、オーガストは緊張しながらも、いつも被っている宇宙服のヘルメットをとり、校内へと踏み出していく。こうしてオーガストの学校生活は始まっていくのだが…

 

【原作】

原作はR・J・パラシオの小説『Wonder ワンダー』です。

ワンダー Wonder

ワンダー Wonder

 

パラシオさんは元々、アートディレクター兼グラフィックデザイナーとして活動していた方なのですが、数年前のある日、トリーチャーコリンズ症の子供に出会ったことがきっかけで本作の執筆を始めたそうです。

その日パラシオさんは、息子たちと共にアイスクリーム店に出かけ、店の前のベンチに座ってのですが、その時隣に座っていた女の子が頭部の骨格に障がいを抱える子だったらしく、それに気づいた3歳の子供が怯えて大泣きしてしまったそうです。

それに慌てたパラシオさんは、なんとかその場を取り繕おうとするも、子供は泣きわめくわ、買ったシェイクを床にぶちまけるわで、ひどい惨状と化してしまったそうです。そうする間に女の子は母と共に去ってしまったそうで、パラシオさんはこの時の振る舞いを猛烈に悔い、どうすれば良かったのか考えを巡らせ、本作の執筆に取り掛かったといいます。

パラシオさんのこのエピソードは、小説内ではジャックウィルの章で描かれており、映画版にもしっかり取り入れられています。

この本が出版されると話題が話題を呼び、世界各国で800万部を売り上げる大ヒット作となりました。

しかし、熱い感想が世界中から寄せられる中、本作中に登場したいじめっ子のジュリアンを強く非難する声が高まり《KEEP CALM AND DON'T BE A JULIAN(冷静さを保ち、ジュリアンになるな)》という運動が起こり始めました。パラシオさんは本作の続編を書く気は無かったのですが、本意ではない運動の盛り上がりに対してアンサーを返すために、ジュリアンら、本作で描かれなかった子供たちのそれぞれの背景を描いた『もうひとつのワンダー』を出版しました。

もうひとつのワンダー

もうひとつのワンダー

 

『もうひとつのワンダー』では、ジュリアンがオギーをいじめ始めたきっかけが緻密に描かれており、ジュリアンが初めて見たオーガストに本気で怯え悪夢障害に悩まされていたことや、彼の母親の愛ゆえの過激な暴走、仲の良かったジャックがオーガストに取られたような苛立ちなどジュリアン側のバックグラウンドが記されています。ですが、あくまでジュリアンを擁護するような描かれ方ではなく、彼のことを理解するための極めて客観視点的な描かれ方になっているところがパラシオさんの見事なバランス感覚だと思います。

今回の映画版には、ジュリアン(とその両親)がトゥシュマン先生と話をするシーンが描かれてます。少々原作と形は異なりますが、そのシーンは『もうひとつのワンダー』に倣って盛り込まれたシーンです。

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンを取ったのはスティーブン・チョボスキー監督です。

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『RENT/レント』や『美女と野獣』で脚本を手掛け、自身の小説『ウォールフラワー』の映画化に際しては自ら監督・脚本・製作総指揮を務めたチョボスキー監督だけに、本作においても原作からの換骨奪胎がとても上手くできていました

プロデューサーから本作の映画化の話を持ちかけられた時、チョボスキー監督は最初はその依頼を断っていたのですが、小説を読みその内容の素晴らしさに惚れ込み、メガホンを取る決意をしたそうです。そういった経緯もあり原作へのリスペクトがふんだんに込められた映画に仕上がっていました。

主人公・オーガストを演じたのは『ルーム』でその名を世界に轟かせた天才子役ジェイコブ・トレンブレイ。特殊メイクで作られた顔のために、表情が作りづらい難しい役どころながら、その繊細な演技でオギーの心情を見事に表現していて感服させられました。

オギーの両親をジュリア・ロバーツオーウェン・ウィルソンが演じるなど脇を固める役者たちも大変素晴らしく、物語への没入感を高めてくれました。

 

私見

93点/100点満点中

製作陣がいかに原作に惚れ込んでいるかが伝わるほど、小説へのリスペクトがふんだんに込められた作品に仕上がっており、原作小説の感動をそのままに味わえる映画に仕上がっていました。

役者陣のアンサンブルも素晴らしく、物語にぐんぐん引き込まれます。

複数のキャラクターを章ごとにメインに据えて描く群像劇的な作りでありながら、誰一人疎かに描いておらず巧すぎる作りに感服しました。

最後には滂沱の涙が流れる家族で見て欲しい作品です。

 

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

【原作との比較】

映画『ワンダー』は原作にかなり忠実作られており、何点かの省略や時系列の入れ替えはあるもの基本のストーリーは原作通りに進んでいきます。

登場人物ごとに章分けされた構成も原作通りで、オギー以外のキャラクターの感情の機微もしっかりと描かれています。

今回の映画版はオギー、ヴァア、ミランダ、ジャックウィルの4人の話をメインに物語を構成しており、原作にあったオギーの同級生・サマーの章と、ヴィアの恋人・ジャスティンの章が端折られています。原作では、サマーは初めひとりぼっちでランチを食べているオギーに同情心から声を掛けたのですが、オギーのことを知るうちに彼の面白さに気付いていき、心から親しくなっていきます。ヴィアの恋人ジャスティンも初めてオギーと会ったときはその顔に面食らったものの、プルマン家の幸せそうな様子を見て、オギーそしてヴィアをささやかながら支えています。映画版はサマーやジャスティンの章こそないものの、彼らのキャラクター性や心境がきちんと汲み取れるように描かれていて良かったです。

他にもオギーが補聴器をつけるシーンや、オギーと仲直りしたジャックウィルがジュリアンから陰湿ないじめを受けるシーンなどが削られていました。 しかしながら原作エピソードの取捨選択は実に巧みだったと思います。

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映画版のオギーのビジュアルは、『マレフィセント』でも特殊メイクを務めたアリエン・タイテンさんが手掛けているので、とても良く出来ているのですが、「オーガストの目は、普通目がある位置よりも3センチ下に付いている」「眼球が入りきるだけの穴がなく目玉が大きく外に飛び出している」「鼻は顔と不釣り合いに大きい」「耳のあるべきところはへこんでいて、顔の真ん中あたりを両側から巨大なパンチで潰されたみたい」と記されている原作中のビジュアルと比べるとやや整いすぎているようにも感じました。

 

【原作からの改良点】

映画版のオギーは、宇宙飛行士への憧れが原作よりグッと前面に出ています。映画は冒頭シーンから宇宙服のヘルメットを被ったオギーのカット原作ではで始まり、ラストショットでもその姿が映し出されています。彼にとって宇宙飛行士への憧れは、見た目によって差別されないSF世界への憧れでもあります。その一方で彼の被る宇宙服のヘルメットは他人に自分の顔を晒さないための消極的な防御策でもあります。

 原作では物語の始まった時点から既にオギーのヘルメットが父親に隠されていたのですが、映画版では序盤のシーンまでオギーがヘルメットをかぶり続けており、初登校時にオギーがヘルメットを脱いで学校に向かうシーンが加えられています。これによって他の児童から奇異な目で見られるオギー、そしてそれを見守るオギーの家族の緊張感を観客も味わえるようになっていました。

また、原作ではオギーのヘルメットは父親によって捨てられていたのですが、映画版では父の会社に置いてあることになっています。ネガティブな意味合いのあるアイテムとはいえ、せっかくミランダがくれたものなので、こちらの改変の方が道義的に良かったと思います。

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原作本は2013年に出版されたものなので、だいぶ現代的な物語ではあるのですが、原作ではFacebook上だったジャックウィルとの仲直りシーンが、マインクラフト上でのやり取りに変わっており、より現代的に改変され子供らしさも加わっていました

 

 

【正しいことより親切なこと】

オギーのクラスのホームルーム担任・ブラウン先生は、いつも子供たちに世界各国の有名な格言を教えるのですが、彼が最初に教えた格言がアメリカの著作家ウェイン・W・ダイアーの「正しいことをするか、親切なことをするか、どちらかを選ぶときには、親切な方を選べ」という言葉です。

この言葉は『Wonder』の評判とともに世界各国に広まり"Choose Kind(親切であることを選ぶ)"という意思表明の運動がSNS上で沸き上がりました。

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オギーの初めての親友・ジャックウィル。ハロウィンの日、ジュリアンたちと話していたジャックは、同調圧力と保身からオギーが近くにいると知らず彼の悪口を発してしまいました。そのせいでオギーに距離を置かれてしまったジャックでしたが、のちに自分の過ちに気付きます。自分の過ちを悔いるジャックの前で、いじめっ子のジュリアンがオギーを揶揄し、その言葉を聞いたジャックは思わずジュリアンを殴ってしまいます。

 人に対して手をあげることは必ずしも正しい行為とは言えないですし、ましてやジャックは貧乏な家庭で奨学金をもらって学校に通っているので暴力沙汰は奨学金の停止、果ては退学にも繋がりかねない行いです。しかし、彼は友達の尊厳を守るためいじめっ子に果敢に立ち向かったのです。

 ひとりぼっちのオギーに手を差し伸べてくれたサマーもまた、正しさより親切を選んだ体現者です。周囲からペスト菌扱いされ、誰もオギーに近寄ろうとしない中、サマーは女子グループの忠告を捨て置き、オギーと友達になります。学校中で腫れ物扱いされているオギーと仲良くなるのは、女子友達との友人関係を壊しかねないリスクを伴うものですが、彼女は打算的な正しさよりも親切であることを選びました

ジュリアンとともにオギーをいじめていたエイモスたちも、森林学校で上級生に絡まれていたオギーを助けるため、皆で立ち向かいます。

そしてみんなの親切の集合が、やがて大きな奇跡を起こして行くのです。

 

【ヴィアとミランダ】

この作品が他のヒューマンドラマ映画と一線を画している点は、ハンディキャップを乗り越える主人公だけを映すのではなく、その周囲で陰ながら寂しい思いをしている人にも寄り添っているところでしょう。

オギーの姉・ヴィアは、父と母の関心がいつも弟にばかり注がれ、なかなか両親に振り向いてもらえず、かといって弟を差し置いて自分に注目してもらおうとアピールすることも気が引けて出来ないという難しい立場にいます。彼女が「オギーは太陽で、私とママとパパは太陽を囲む惑星」と言うのも中々寂しいセリフです。自分を気にかけてくれていたおばあちゃんも亡くなってしまい、加えて幼馴染のミランダからは高校に入った途端になぜか距離を置かれてしまいます。

 そんな中で彼女がジャスティンと出会い、足を踏み入れたのが演劇の世界です。両親に振り向いてもらえないというコンプレックを抱える彼女が、観客からの視線を一身に集める演劇に挑戦したのはヴィアが彼女なりに見つけ出した自分を輝かせるための方法といえるでしょう。

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ヴィアの幼馴染・ミランダは、プルマン家の幸せそうな姿に焦がれ、ヴィアの居ないサマーキャンプで「私には奇形の弟がいる」と虚言を弄し、注目の的になってしまいます。その結果、ヴィアに顔向けしにくくなってしまったミランダは、自然と彼女を避けるようになってしまいました。

オギーに焦がれるヴィアと、ヴィアに焦がれるミランダ。仲違いしている2人ですが、抱えるコンプレックスは似た者同士といえます。

ミランダが主役を務める予定だった舞台「わが街」。しかし、ヴィアの家族が観劇に来ていることを知ったミランダは、代役の彼女に自分の役を譲ります。元はごっこ遊びの延長で奇形の弟がいる姉を演じてしまったミランダが、今度は逆に自分の役をヴィアに演じてもらうというのは彼女なりの贖罪といえるかもしれません。

 自分の役を完璧にこなしたヴィアに、観客からの大喝采の拍手が送られます。そのシーンで、幼き日のヴィアが誕生日のお祝いで両親に「弟が欲しい」と言うフラッシュバックが差し込まれます。このシーンは原作にはない映画版オリジナルで加えられた演出です。ヴィアもオギーと同じようにちゃんと両親から愛されている事が伝わる涙腺を刺激するシーンでした。

 

【あなたは奇跡】

頰やあごの骨、耳、鼻などがうまく形成されず、極端に垂れた目が特徴的な疾患、トリーチャー・コリンズ症候群。日本では5万人に1人の確率で生まれるというこの疾患。その症状は外見だけでなく、呼吸、聴覚、視覚にまで影響し、幼い頃から再建手術を繰り返さなければなりません。

オギーもまた27回もの手術を繰り返し、外の世界にほとんど触れない生活を送って来ました。度重なる手術を受けてきたオギーに、両親はいつも付きっ切りで、自分の時間などほとんどありません。

そんな中、母・イザベルは10歳を迎えたオギーを学校へ通わせる決意をします。最初は反対していた父・ネートも覚悟を決め、息子を学校へと送り出します。

もし、オギーが学校へ行かなくても、彼は両親から一身に愛され、誰からも傷つけられることなく幸せに暮らすことができるかもしれません。しかし今のままではオギー、そして家族の世界は依然変わらないままなのです。

オギーと家族の勇気ある一歩が、彼の世界を変えるきっかけとなっていきます。

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オギーが学校へと通うようになってから、彼の世界も彼の周りの人々の世界も変わっていきます。

 これまでずっとオギーを見守り続け、すっかり自分の時間を忘れていたイザベルは、停滞していた美術の修士論文に取り掛かります。オギーが1歩踏み出すことで、彼の家族の世界も動き出して行くのです。

オギーは、悪意を持った人たちから傷つけられながらも学校へ通い続け、いつしか徐々に周りの人々を魅了していきます。トゥシュマン校長が「静かな強さで大勢の心を掴んだ」と評したとおり、オギーは勇気の力で世界を変えたのです。

人とは異なる顔という彼のスティグマが、彼の強い芯のある男の子へと成長させ、そしてその強さが人々を魅了しWonder(奇跡)を起こしたのです。

忘れてはならないのは、オギーは特別な顔を持っただけのごく普通の男の子であるということです。1人の普通の少年が世界を変えるという物語は、境遇の異なる我々にも大きな勇気を与えてくれました。

 

映画『ビューティフル・デイ』と原作小説『You Were Never Really Here』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は、

映画ビューティフル・デイです。   

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【あらすじ】

誘拐された子供の救出を生業とするフリーランサージョー。母と二人で静かに暮らすジョーは、幼少期に父から受けた虐待と、海兵隊・FBI時代に経験したトラウマに苛まれ、いつも自殺未遂を図っていた。そんなある日、ジョーの元に州上院議員・ヴォットより、失踪した娘のニーナを裏社会の売春組織から取り戻して欲しいという依頼が舞い込む。ジョーは依頼通り、売春が行われているビルへと向かったのだが…

 

【原作】

原作はジョナサン・エイムズの小説『You Were Never Really Here』です。  

ビューティフル・デイ (ハヤカワ文庫NV)

ビューティフル・デイ (ハヤカワ文庫NV)

 

 ↑映画の公開に合わせて、映画と同名タイトルで小説の翻訳版が発刊されています。

本著は2013年に電子版でリリースされた作品で、今年20ページ分の書き足しを加えて書籍として発刊された中編小説です。

原作者のジョナサン・エイムズは小説家・エッセイストでありながら、映画・ドラマ業界でも活躍しており、ポール・ダノ主演の映画『The Extra Man』では原作・脚本、TVドラマ『ボアード・トゥ・デス』では企画・製作総指揮を務めるなど実に多彩な作家です。

彼の作品のこれまでの作風は、どちらかというとコメディ寄りのものが多かったのですが、本作はコメディ色をほぼ廃して、シリアスでダーティーな男の物語に仕上げています。

原作中で出てくる売春現場の娼館は、原作者の家の近くに実際にあった建物をモデルにしているそうで、売春業者の使いっ走りとして登場する男も実在のモデルがいるそうです。

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンを取ったのは『僕と空と麦畑』や『少年は残酷な弓を射る』を手掛けたリン・ラムジー監督です。  

少年は残酷な弓を射る [DVD]

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 ラムジー監督の作品は、ブラックな物語の中に人間の繊細な心情描き出す作風のものが多く、本作もそういった資質がよく表れた作品となっています。シリアスな物語の中にふと笑ってしまうような描写を入れるのもこの監督の特徴で、作中に絶妙に織り交ぜられるブラックコメディ要素が物語に緩急を生み出しています。また、ラムジー監督は本作で脚本も務めており、カンヌ映画祭脚本賞を受賞しています。原作にリスペクトを込めつつ独自の作家性も存分に発揮させており、確かに良く出来た脚本でした。

本作の音楽を担当したのはジョニー・グリーンウッド。世界中から愛されるロックバンド・レディオヘッドのメンバーでありながら、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『ファントム・スレッド』などで映画音楽を手掛けたりもする才人です。ラムジー監督とは『少年は残酷な弓を射る』以来2度目のタッグとなり、本作ではエレクトロニックサウンドと低音のストリングスを効かせた劇伴で物語に不穏さを与えていました。

主人公・ジョーを演じたのはホアキン・フェニックス。彼は今作でカンヌ映画祭の主演男優賞を受賞しています。本作で彼が見せる表情は本当に心を病んでしまった男にしか見えず、彼の死んだ目が脳裏に焼き付いて離れませんでした。昨今の映画作品ではヒーローや暗殺者を演じるにあたって体を引き締め筋骨隆々に仕上げる役者が多いですが、彼は逆に体を増量させることに挑んだそうです。原作のジョーのビジュアルとはかなり異なるのですが、映画版のジョーは、その見た目だけで心に傷を負った中年男に見えました。

 

私見

83点/100点満点中

映画前半は原作に忠実に映像化されているのに対し、後半部は監督の作家性がかなり前面に出た脚本になっています。しかしながら、登場人物のキャラクター性はきちんと一貫性が保たれていて、改変部にも好感が持てました。

主人公の弱い部分を原作よりも前面に押し出し、その小説では出番の少なかったヒロインの少女を、主人公にとってのメンター的な役割として引き立てているのも良かったです。

全編を通して流れる低音の劇伴も、ダークでシリアスな物語に良いアクセントを与えていました。

 

 

 

以下ネタバレあり

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映画『のみとり侍』と原作小説『蚤とり侍』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は

映画のみとり侍です。 

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【あらすじ】

時は江戸。越後長岡藩の勘定方書役として出世街道をひた走っていた小林廣之進は、ある日の歌詠み会で、藩主の牧野備前守忠精が作った歌が良寛の歌に酷似していることを指摘し、忠精の逆鱗に触れてしまう。主君から「猫の蚤取りになって無様に暮らせ」と吐き捨てられた廣之進は、言われるがままに"蚤取り屋"に行き雇ってもらうよう申し出る。しかし、蚤取り屋の実態とは、寂しい女性と床を共にする裏稼業だった…

 

【原作】

原作は小松重男の同名小説『蚤取り侍』です。

蚤とり侍 (光文社時代小説文庫)

蚤とり侍 (光文社時代小説文庫)

 

表題となっている『蚤取り侍』は、短編小説集の中の一作で、今回の映画はこの表題作品の他に2作の短編を織り交ぜて映像化しています。

 原作者の小松重男さんは、元々鎌倉アカデミアの演劇科出身で、卒業後は松竹大船撮影所で『古都』や『愛と死』などで知られる映画監督の中村登に師事した方です。その後は前進座という歌舞伎劇団で文芸演出部を務め、新協劇団という劇団では演出部に就くなど演劇界で精力的に活動されてきました。その演劇映画界で培った知識や演出術が、小松さんの作品の礎となっています。

作家としてのキャリアのスタートはかなり遅咲きで、46歳でデビュー作『年季奉公』を発表。その作品で早速オール讀物新人賞を受賞します。その後は、『鰈の縁側』『シベリヤ』で直木賞候補にノミネートされるなど、めざましい活躍を見せました。(『年季奉公』と『鰈の縁側』は本著の中に収録されています。)

しかし、残念なことに昨年2017年、小松さんは亡くなられてしまい、この映画を観ることは叶いませんでした

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンをとったのは、『愛の流刑地』や『後妻業の女』の鶴橋康夫監督です。 

後妻業の女 DVD通常版

後妻業の女 DVD通常版

 

 鶴橋監督はこれまでの映画作品でもれなく業の深い男女の性愛をテーマにしており、『のみとり侍』もこれまでの作風に漏れず、男女の性愛とその業を描いた作品となっています。鶴橋監督は本作の脚本も務めているのですが、蚤とり屋という男娼商売は確かに存在したものの文献が多くなく、時代考証担当の大石学さん東京学芸大学教授)と共に創作性を織り交ぜつつキャラクターを作り上げていったそうです。

主人公・小林廣之進を演じたのは阿部寛。鶴橋監督とはテレビドラマ「天国と地獄」以来のタッグとなる阿部さんは、愚直すぎる藩士の役がピッタリとはまっており、真面目さとどん臭さのあるキャラクターを好演していました。

 

私見

70点/100点満点中

小松重男さんの短編小説3つを繋ぎ合わせて1本の作品としてまとめた本作。

原作小説の魅力であった、人間の可笑しみや愛おしさがきちんと映像作品として昇華されており、原作者に対してのリスペクトが感じられました。

原作よりも人情劇的に仕上げた演出や、映画オリジナルで加わった政治的展開など映画としての面白さも加えられていて良かったです。

ただ、3つの作品を繋ぎ合わせたことによる歪さも少し感じられました。

 

 

 

以下ネタバレあり

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