雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『窮鼠はチーズの夢を見る』と原作漫画「窮鼠はチーズの夢をみる」&「俎上の鯉は二度跳ねる」(ネタバレあり)

今回紹介する作品は『窮鼠はチーズの夢を見る』です。 

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あらすじ

 優柔不断な性格ゆえに、流されるがまま不倫を繰り返してきた会社員・大伴恭一。そんな彼の務めるオフィスに、大学時代の後輩・今ヶ瀬渉が現れる。興信所の浮気調査員として恭一の妻から不倫の調査依頼を受けていた今ヶ瀬は、恭一に不倫現場を抑えた写真を突きつけ、浮気の事実を隠蔽する代わりにカラダの関係を要求する。最初は抵抗したものの、やむを得ず今ヶ瀬の要求に応える恭一。これで家庭の平穏は保たれたかと思ったが、恭一は妻から一年前から付き合っている男がいることを明かされ、別れを切り出される。こうして独身となった恭一は一人暮らしを始めることとなるが、恭一の家には今ヶ瀬が転がり込むようになり…

 

原作

原作は、水城せとなの同名漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』とその続編『俎上の鯉は二度跳ねる』です。

 水城せとな先生は、『失恋ショコラティエ』や『脳内ポイズンベリー』など、恋愛作品を多く手掛けており、人が人を愛するときの、喜びや痛み、苦しみを繊細な心理描写で描き出す天才作家です。

 水城先生は少女漫画誌からレディースコミック、更には青年誌まで、幅広い雑誌で活動してきた作家で、読者の共感を呼び起こす作家性から、多くのファンを獲得してきました。

 小学館講談社集英社などあらゆる出版社で連載を持った経験があり、各社から引っ張りだこの超人気作家です。少年誌で例えるなら、ジャンプでもサンデーでもマガジンでも連載経験がある漫画家といったところですね。

 本作は小学館コミック誌『Judy(現在休刊中)の増刊号『NIGHTY Judy』に連載されていた作品です。『NIGHTY Judy』はリアルな性愛描写があるのが特徴の女性向けコミック誌で、本作も同性同士のセックス描写が微細に描き込まれており、性交中の体位からも、二人の関係性の変化が読み取れるようになっています。

 ただ、今発刊されている『窮鼠~』と『俎上の鯉~』のコミックスは、最初に刊行されたバージョンから修正が加えられており、性描写がややマイルドになっているそうです

 

スタッフ・キャスト

本作のメガホンをとったのは『世界の中心で愛を叫ぶ』や『ナラタージュ』の行定勲監督です。

 人を愛することでどうしようもなくなっていく人間の悲喜を描き続けてきた行定監督だけあって、本作のテーマと監督の作家性がぴったりはまっていたと思います。また原作にあったリアルな性描写も、曖昧な表現やカットに逃げることなく、しっかりと映像化しており、とても好感が持てました。

 脚本を担当したのは『ナラタージュ』や『真夜中の5分前』でも行定監督とタッグを組んだ堀泉杏。本作の映画化の話はこれまでにもあがっていたそうなのですが、映像化にあたって、原作のストーリーから「キラキラ美化」された物語に改変されていたら、水城先生が映画の制作を断っていたそうです。そんな水城先生をも納得させるストーリーに仕上げたのは、脚本家の手腕と言えるでしょう。

 主人公・大伴恭一を演じたのは大倉忠義。優柔不断で、吹けば飛びそうなほど自分のない男をしっかり演じており、大倉さんが演じる主人公のどこに転がるかわからない心許なさが、作品の面白さを増幅させてていました。男性とのキスは舞台「蜘蛛女のキス」でも経験があったそうなのですが、本作の濡れ場ではかなり体を張っていて、そこまでやるんだ!と感嘆させられました。

 そして恭一のことを想い続ける後輩・今ヶ瀬を演じたのは、成田凌。恭一に必死に尽くそうとする犬っぽさと、突然フッといなくなってしまいそうな猫っぽさの両方を持ち合わせた見事な演技で、正直メチャクチャかわいかったです。

この2人のキャスティングは、まさにBLの一昔前の呼び名である「耽美」を体現していたと思います。

 

私見

75点/100点満点中

 本筋は原作のストーリーをきちんと準えながらも、映画版オリジナルのラストシーンは原作以上に切なさが増しており、良い味わいの映画に仕上がっていました。言葉で多くを語らせない演出も冴えていて非常に良かったです。

何より主演二人がイチャイチャする様を眺めているだけで眼福でした。

 原作コミックにあったハードな性描写もしっかりと踏襲しており、作者へのリスペクトも感じられました。

 ただ、個人的に好きな原作のキャラクターが映画版ではかなり嫌な感じに描かれていたのが引っ掛かりました。

 

 

 

以下ネタばれあり

 

 

 

 

原作との比較

 原作ではモノローグで主人公の葛藤や心情の変化などが描かれているのですが、映画版はモノローグによる心情描写はなくし、説明過多になり過ぎない絶妙なバランスで作られています。原作の詩的な心情表現や、恭一の心の中で黒恭一と白恭一が言い争うシーンも好きなのですが、心情を表現しすぎない映画版の演出は、コミックと映画という媒体の違いをきちんと理解し、丁寧に映像化しているように感じられました。

 

 映画版は多少の省略や改変はあるものの、大筋は原作のストーリーに沿って進みます。原作からは、恭一が同窓会で再会した同級生と関係を持ってしまう展開や、今ヶ瀬と別れた恭一が、たまきの前で涙を見せてしまうシーンなどが端折られていましたが、原作既読者から見ても違和感のない再構成になっていたと思います。

 原作から最も大きな改変が加えられていた点は、恭一と今ヶ瀬が別れた後の展開です。

 原作には恭一の新しい恋人となったたまきがストーカー被害に悩まされ、今ヶ瀬に調査を依頼するという展開があります。たまきがストーカーに襲われケガを負い、恭一が病院に駆けつけると、そこに居合わせた今ヶ瀬と再会を果たします。恭一と二人きりになった今ヶ瀬は、思いの丈を涙ながらににぶつけ、そんな今ヶ瀬が愛おしくなった恭一は、唇を奪い、再び体を交わします。そして、たまきに別れを告げる決意をするというのが原作の流れです。原作では、ケガを負ったたまきに恭一が別れを告げることで、彼が情に流されなくなったことを表していましたが、いくらなんでもたまきが可哀想だろうと思っていたので、ここをカットしたのは個人的には英断だと思いました。(フラれたたまきが気丈にふるまう原作のシーンも泣けるのですが…)

 たまきに別れを告げた後、恭一が家に帰ると、今ヶ瀬は消え去っており、ごみ箱には二人が共に過ごした証である灰皿が捨てられていました。原作では、今ヶ瀬がバスで去ろうとしたところに恭一が現れ、「男ならいい加減腹くくれよ、こっちはもうとっくにくくったぞ」と自分の覚悟を伝えます。二人は再びヨリを戻しますが、両者ともこの関係が永遠に続くものだとは思っておらず、いつか来るかもしれない終わりに向けて、二人の恋が続くことが示唆されます。

 対して映画版では、二人はヨリを戻しておらず、今ヶ瀬は他の男に抱かれながら恭一を思い涙を流し、恭一は一人になった部屋で今ヶ瀬が帰ってくることを信じてただ待つ様子が描かれてます。原作とは対極的な終わり方ですが、原作よりも切なさが増した映画版のラストシーンも好きでした。

 

 あと、些細なシーンですが、二人がが乳首あてゲームでじゃれ合う映画版オリジナルのシーンも良かったです。

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 不満点

  恭一をめぐって、元カノの夏生と今ヶ瀬がいがみ合うシーンは原作にもあるのですが、原作にあった大事なシーンをカットしたことで、夏生がただの嫌な女として描かれているのが気になりました。

 原作では、恭一が夏生を選んだ次の日、今ヶ瀬は同居していた家を立ち去り、連絡もつかなくなってしまいます。恭一はそのことを夏生に話し「どんだけ粘ってもやらせなかったから、あいつもさすがにアホらしくなったんじゃないか」「ノーマルな男を食ってみたかっただけだろうな」などと自分の虚しさをごまかすために、今ヶ瀬を貶めた物言いをしてしまいます。そんな恭一に対し、夏生は「今ヶ瀬はそんな子じゃないよ」とキッパリ言い放ちます。こんな良いシーンがあったのに映画版では丸々カットされていました。

 夏生は今ヶ瀬にとっての恋敵ではあるものの、決して性悪な女ではないので、映画内での一面的な描かれ方はかなり不満でした。(原作コミックの巻末には、今ヶ瀬と夏生が互いの近況を語り合い、恋バナに花を咲かせる後日譚も描かれていたりしています。)

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  今ヶ瀬と別れた恭一がゲイバーに行くシーンは、映画版オリジナルのものです。今ヶ瀬を失った恭一の喪失感が表れたシーンではあるのですが、恭一に声をかけてくるゲイバーの客の描かれ方があまりにもステレオタイプすぎて、ゲイの方への偏見を助長しかねない気がました。こんなシーンでなくても、恭一の喪失感は描けると思うので、他にやりようがあったのではないかと思います。

 

好きになる理由

 優柔不断な性格の恭一は、流され侍というあだ名をつけられるほど主体性のない男です。恭一自身も自分が立派な人間ではないことを自覚しており、「俺はお前がこだわるような男じゃない」と今ヶ瀬に言いますが、今ヶ瀬は「見た目が綺麗で、人間ができていて、自分にいい思いをさせてくれる。そんな完璧な人をみんな探してると思ってるんですか?」と言い返します。このセリフの通り、今ヶ瀬が恭一に抱く慕情は、理屈では言い表せないものです。

 今ヶ瀬が恭一を愛する理由は説明の難しいものですが、映画版では恭一が時折とるさりげない言動に、今ヶ瀬が惚れてしまってもしょうがないと思わせる演出がなされています。テレビを見ながらふいに今ヶ瀬の髪をなでたり、今ヶ瀬が咥えているタバコを取ってごく自然な流れで間接キスしたりと、些細な行動ではありますが、ちゃんと恭一が今ヶ瀬のことを受け入れていることが伝わる演出が加えられていました。

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中途半端だから残酷

 周囲に流されるがままに生きてきた恭一は、今ヶ瀬にじわじわと流され、自分の性的指向でないにもかかわらず同性同士で体の関係を持ってしまいます。本来同性愛者ではない恭一にとって、今ヶ瀬は恋人になりえないので、恭一が今ヶ瀬を拒絶してしまえば、二人の関係は終わるのですが、二人で過ごす時の居心地よさや、今ヶ瀬が自分のことを好いてくれているという情から、恭一はその関係をズルズルと続けていきます。

 恭一の優柔不断な性格は、自ら決断しないことで自分の逃げ道を確保してきた小狡さと、相手を拒絶することで傷つけたくないという優しさの二つの面があります。しかしその中途半端さが、恋人にも他人にもなれない今ヶ瀬を苦しめるのです。

 苦しい思いをずっと抱えながら過ごしてきた今ヶ瀬は、恭一とたまきが良い関係になっているのではないかと不安に駆られ、恭一に「貴方じゃだめだ…」言ってしまいます。そして二人は一度別れることとなります。

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  恭一の優柔不断な性格が変化していく様子が分かるのが、セックス中の体位です。最初は、なされるがままに今ヶ瀬に体を貪られていた恭一ですが、二人の関係が深まっていくと、今ヶ瀬に挿入を許すようになり、二人がヨリを戻した後は、恭一自ら今ヶ瀬に挿入するようになります。

 このように、セックス中の体位で恭一が徐々に主体性を持ち始めていく様が描かれており、ずっと受け身だった恭一が、攻めに転ずる姿は、優柔不断な性格から脱却し、今ヶ瀬と生きてくことを決めた決意表明のように感じられました。

 

恋愛は業だ

  一度は今ヶ瀬と別れ、たまきと円満な家庭を築こうとしていた恭一でしたが、結局はお互い離れることができず今ヶ瀬と再び関係を持ってしまいます。

 原作漫画には、恭一が心の中で「恋愛は業だ」と呟くセリフがあります。このセリフは、今ヶ瀬のことが手放せないと悟り、婚約者のたまきに別れを告げることを決めた恭一の押し潰されそうな胸の内を表したセリフです。たまきを愛しているという気持ちに偽りはないものの、それでも今ヶ瀬のことを選んでしまう恭一の苦悶する心情が描かれています。

 対して映画版では、原作コミックとは少し違った形で「恋愛の業」が描かれています。映画版の恭一は原作よりも、たまきへの愛が薄いように感じられます。たまきと一緒にいても心ここにあらずで、別れたはずの今ヶ瀬と惰性のように関係を続けます。映画版で描かれる恋愛の業とは、傷つくことと傷つけることを分かっていながら、どうしても離れられない人間のどうしようもなさです。

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 今ヶ瀬と離れられないと悟った恭一は、ついにけじめをつけ、たまきに別れを告げます。しかし、家に戻ると今ヶ瀬はいなくなっていました。

 昔、恭一が今ヶ瀬との関係に溺れるのを恐れていたように、今ヶ瀬もまた恭一への恋心に溺れていくことを恐れていたのです。これから先、数え切れないほど苦しい思いをすることは、今ヶ瀬自身がよく分かっていて、このままだと自分が壊れてしまうと思い、今ヶ瀬は恭一のもとから去ることにしたのです。

 恭一は、一人になった部屋で、今ヶ瀬のことを想いながら、彼の帰りを待ちます。いつか今ヶ瀬が振り向いてくれることを信じ、かつて今ヶ瀬が恭一のことを想っていたように…