映画『ビューティフル・デイ』と原作小説『You Were Never Really Here』の比較(ネタバレありの感想)
今回紹介する作品は、
映画『ビューティフル・デイ』です。
【あらすじ】
誘拐された子供の救出を生業とするフリーランサー・ジョー。母と二人で静かに暮らすジョーは、幼少期に父から受けた虐待と、海兵隊・FBI時代に経験したトラウマに苛まれ、いつも自殺未遂を図っていた。そんなある日、ジョーの元に州上院議員・ヴォットより、失踪した娘のニーナを裏社会の売春組織から取り戻して欲しいという依頼が舞い込む。ジョーは依頼通り、売春が行われているビルへと向かったのだが…
【原作】
原作はジョナサン・エイムズの小説『You Were Never Really Here』です。
↑映画の公開に合わせて、映画と同名タイトルで小説の翻訳版が発刊されています。
本著は2013年に電子版でリリースされた作品で、今年20ページ分の書き足しを加えて書籍として発刊された中編小説です。
原作者のジョナサン・エイムズは小説家・エッセイストでありながら、映画・ドラマ業界でも活躍しており、ポール・ダノ主演の映画『The Extra Man』では原作・脚本、TVドラマ『ボアード・トゥ・デス』では企画・製作総指揮を務めるなど実に多彩な作家です。
彼の作品のこれまでの作風は、どちらかというとコメディ寄りのものが多かったのですが、本作はコメディ色をほぼ廃して、シリアスでダーティーな男の物語に仕上げています。
原作中で出てくる売春現場の娼館は、原作者の家の近くに実際にあった建物をモデルにしているそうで、売春業者の使いっ走りとして登場する男も実在のモデルがいるそうです。
【スタッフ・キャスト】
本作のメガホンを取ったのは『僕と空と麦畑』や『少年は残酷な弓を射る』を手掛けたリン・ラムジー監督です。
ラムジー監督の作品は、ブラックな物語の中に人間の繊細な心情描き出す作風のものが多く、本作もそういった資質がよく表れた作品となっています。シリアスな物語の中にふと笑ってしまうような描写を入れるのもこの監督の特徴で、作中に絶妙に織り交ぜられるブラックコメディ要素が物語に緩急を生み出しています。また、ラムジー監督は本作で脚本も務めており、カンヌ映画祭の脚本賞を受賞しています。原作にリスペクトを込めつつ独自の作家性も存分に発揮させており、確かに良く出来た脚本でした。
本作の音楽を担当したのはジョニー・グリーンウッド。世界中から愛されるロックバンド・レディオヘッドのメンバーでありながら、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『ファントム・スレッド』などで映画音楽を手掛けたりもする才人です。ラムジー監督とは『少年は残酷な弓を射る』以来2度目のタッグとなり、本作ではエレクトロニックサウンドと低音のストリングスを効かせた劇伴で物語に不穏さを与えていました。
主人公・ジョーを演じたのはホアキン・フェニックス。彼は今作でカンヌ映画祭の主演男優賞を受賞しています。本作で彼が見せる表情は本当に心を病んでしまった男にしか見えず、彼の死んだ目が脳裏に焼き付いて離れませんでした。昨今の映画作品ではヒーローや暗殺者を演じるにあたって体を引き締め筋骨隆々に仕上げる役者が多いですが、彼は逆に体を増量させることに挑んだそうです。原作のジョーのビジュアルとはかなり異なるのですが、映画版のジョーは、その見た目だけで心に傷を負った中年男に見えました。
【私見】
83点/100点満点中
映画前半は原作に忠実に映像化されているのに対し、後半部は監督の作家性がかなり前面に出た脚本になっています。しかしながら、登場人物のキャラクター性はきちんと一貫性が保たれていて、改変部にも好感が持てました。
主人公の弱い部分を原作よりも前面に押し出し、その小説では出番の少なかったヒロインの少女を、主人公にとってのメンター的な役割として引き立てているのも良かったです。
全編を通して流れる低音の劇伴も、ダークでシリアスな物語に良いアクセントを与えていました。
以下ネタバレあり
【原作との比較】
今回の映画版は、前半部まで原作のストーリーを準えていますが、後半からの展開が大きく異なっています。
原作から特に大きく改変されているのが、上院議員ヴォットと、その娘ニーナ(原作ではリサという名)を巡る話です。
ヴォットは、原作ではジョーが物語の最後に対峙する相手なのですが、映画版では物語中盤で自殺(他殺の可能性もあり)してしまいます。そのため映画ではジョーが最後に対峙する相手が、ヴォットが娘を貢いでいた州知事・ウィリアムズになっていました。(対峙する前に死んでいましたが)
ヴォットの娘・ニーナは、原作ではジョーの元から連れ去られたまま見つかっておらず、ヴォットがノヴェッリという男に娘を引き渡したことが最後に明かされます。ジョーが少女の救出を心に決め、新しい生きる意味を見い出したところで小説は終わります。対して映画版は、ニーナが州知事・ウィリアムズの元から救い出され(彼女が自分自身を救った感じですが)ジョーとともに旅立つところで物語が終わっていました。
また、原作にはなかったブラックユーモアも本作には盛り込まれています。映画『サイコ』を見て怖がる母に、ジョーが冗談めかして有名な刺殺シーンの再現をするシーンや、母を殺した男を撃ち、瀕死の男の隣でジョーが「愛はかげろうのように」を歌うシーンなど、ラムジー監督流のブラックすぎるユーモアが光っていました。
原作ではジョーに仕事を斡旋するマクリアリーや、上院議員のヴォットの思いや考えが明確にに記載されているのですが、映画版ではそういった分かりやすい説明を省いて物語に深みを与えていました。
【原作からの改良点】
今回の映画版では、行方不明の少女・ニーナが、原作以上に重要な役割を持つキャラクターとなっています。
原作は、ジョーがニーナを救うためにひたすら奔走する物語なのですが、映画版ではジョーとニーナが互いを救いあったような印象になっています。(むしろニーナがジョーを救った部分が多い印象)
原作でもジョーはあまりカッコよく描かれてはいなかったのですが、映画版はそれ以上に彼のヒロイックさを抑制し、その分ニーナに自我を持たせ、彼女自身に事件の終止符を打たせていました。
これまでの定型的な男性ヒーローモノと違い、ヒロインの意思によって、弱い男が救われる物語になっていて面白い改変でした。
ジョーがニーナを娼館から救い出したように、ニーナもまた母親や親しい人を失ったジョーに新たな生きる意味を与え彼を救済したといえるでしょう。
【不満点】
ニーナの父で上院議員のヴォットは、原作中ではジョーが物語の最後に相対する相手です。小説は、ジョーがヴォットをハンマーで殴り殺したところで物語が終わります。
幼少期に父親から虐待を受けていたジョーにとって、娘を大物議員に貢がせるヴォットは、自分の父と同じ虐待者であるため、クライマックスにジョーとヴォットが対峙することにはとても意味があります。
しかし、今回の映画版ではヴォットが物語の中盤で自殺してしまい、ジョーの過去のトラウマとの対峙は若干薄れてしまったように感じました。(ニーナに事件を解決させるためには仕方ない改変にも感じましたが)
【ジョーとニーナ】
ジョーは子供の時に父から激しい虐待を受け、海兵隊時代には射殺される子供達を目撃し、FBI時代は人身売買組織から中国人少女を救えず死なせてしまったという何重ものトラウマを抱える男です。
ジョーが経験したトラウマは、全て子供たちが被害にあったもので、彼がフリーランスで人身売買や性犯罪に巻き込まれた子供を救出しているのには彼の過去が起因しています。
ニーナもまた性犯罪に巻き込まれた少女で、彼女の場合は、なんと父が女衒として娘を州知事に売っていました。彼女もジョーと同じく虐待の憂き目にあった人間なので、故に彼と精神的に共振しあったのでしょう。
ジョーは殺しも厭わない方法で犯罪組織から子供達を救ってきました。ニーナも彼と同じように、州知事ウィリアムズを殺し、自分自身を悪の手から救います。彼女がジョーのやり方を見てウィリアムズの殺害に及んだのかは分かりませんが、こうして2人は傷ついたもの同士、同じ道筋で同化していったといえるでしょう。
【カウントダウン】
ジョーがニーナと初めて会った時、彼女は脳内で数字のカウントダウンをしていました。それは売春された彼女が、男に犯されている間、心を殺し、考えることを止めるために編み出した方法です。
原作ではカウントアップだったのですが、映画版ではカウントダウンになっています。彼女は自分の仕事時間が終わるまでの秒数を数え、この苦痛が終わるまでのカウントダウンをしていたのでしょう。
母が殺されたジョーは、遺体を葬るために母の亡骸を湖に沈めます。その時ジョーも一緒に水の底へと沈むのですが、そこにニーナのカウントダウンの声が聞こえてきます。
ニーナが身につけた苦痛が終わるまでのカウントダウンは、ジョーにも影響を与え、母を亡くした苦しみが終わるまでのカウントダウンとして共鳴したのでしょう。
ジョーとニーナが一緒にいた時間はたった数時間にすぎませんが、その短い間にジョーとニーナの傷ついた魂は呼応しあっていたのかもしれません。
【お前はもともと居なかった】
映画と原作小説の原題は『You Were Never Really Here』。訳すると「お前はもともと存在していなかった」という意味になります。
その言葉通り、本作の劇中、ジョーを映していたはずのカメラが一瞬カットを切り替えると、その場に居たはずの彼が消えてているという空のショットが度々挟まれます。(給水機で水を飲んでいたジョーが、次のカットで消えている場面など)
インタビューでラムジー監督が「彼は現在の時制に生きていない」と語っている通り、ジョーは過去に囚われたまま、死んだように今を生きています。彼が写っていないカットは、彼が過去の時制に留まったままであることを示しているのでしょう。
何度も自殺を図るジョーでしたが、いずれも未遂に終わり、彼が死ぬことはありませんでした。しかし映画ラスト、彼はダイナーで自らに銃を突きつけ発砲します。それは単に彼が見た夢だったのですが、それまでの自殺シーンとは違い、明確にジョーの死体が映し出されていました。
それは、大切な人たちを亡くし、生きる意味全てを失った男が、一度死んで、新しい人生を手に入れるという、過去への決別のように感じました。
映画のラストショット、ジョーとニーナが座っていたはずの座席にだらも座っていないという、からのショットが映しだされます。過去を生きていた男は、少女と共に未来を生きることを決めたのかもしれません。