雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

原作読んで映画レビューするよ!

映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』と原作小説『チェスの話』(ネタバレあり)

今回紹介する作品は、

ナチスに仕掛けたチェスゲーム』です。

【あらすじ】

ロッテルダム港を出港しアメリカへと向かう豪華客船に乗り込んだヨーゼフ・バルトークは、船内で行われていたチェスの大会を目撃する。彼は世界王者と対局中の船のオーナーにアドバイスを与え、劣勢にあった局面を引き分けにまで持ち込ませる。バルトークに興味を持ったオーナーは「大会で何度優勝した?」と尋ねるが、彼は「駒に触ったのは初めてだ」と答えた。

バルトークはかつてウィーンで公証人として働いていたが、ヒトラー率いるドイツがオーストリアを併合したことにより、ナチスに連行されていた。ゲシュタポから貴族の預金番号を教えるよう迫られたバルトークだったが、彼は頑なに口を閉ざす。

一向に口を割らないバルトークはホテルの一室に監禁されてしまう。そこは、家具以外のものは何もなく、外部の情報や文化が一切遮断された空間だった。外界と断絶された部屋でひたすら孤独に耐え、気を紛らわせるものもないヨーゼフは、次第に精神を病んでいく。ある日、彼は監視の目を盗んで一冊の本を手に入れる。その本こそ、ヨーゼフの運命を変えるチェスの指南書であった…


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【原作】

原作はシュテファン・ツヴァイクの短編小説『チェスの話』です。

ツヴァイクは、1881年オーストリアのウィーンにユダヤ人実業家の息子として生まれ、最初は詩人として活動していました。その後、劇作家を経て小説家に転じ、ドイツ語圏の作家として戦間期に最も成功した作家と呼ばれるほど、人気を博しました。

ロマン主義の影響を受け反戦運動にも参加していたツヴァイクでしたが、1933年にヒトラー政権が成立し反ユダヤ派の勢いが強くなると、追われるように国を出ることとなります。それから長きにわたる亡命生活の末、「長いさすらいの年月に疲れ果てた」「自由な意思と明晰な精神を持って人生に別れを告げます」などと記された遺書を残し自らの命を絶っています。

本作『チェスの話』はツヴァイクが亡命の途上で執筆した生涯最後の作品です。ツヴァイクは他の移民たちとの交流の中で、祖国やドイツで行われている強制収容所のことやゲシュタポの活動などについて知っていたそうです。本作からは、ツヴァイクの愛した文化と豊かな知性に満ちた社会が、ファシズムによって崩壊していく事への憂いが強く感じ取れます。

 

ちなみに、上にリンクを載せた2011年みすず書房版の『チェスの話』は、1941年に大久保和郎さんが訳したものを再録したものなので、文章が固く、少々読みにくいかもしれません。なので、これから読みたいという方は、幻戯書房版の『過去への旅 チェス奇譚』の方がとっつき易いかと思います。

 

【スタッフ・キャスト】

本作の、メガホンを取ったのは『アイガー北壁』や『ゲーテの恋〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」〜』のフィリップ・シュテルツェル監督です。

シュテルツェル監督は、15歳頃にツヴァイクの「チェスの話」に出会い、感銘を受けたと言います。監督は小説と映画という表現媒体の違いをかなり意識して本作を作っており、原作小説をそのまま映像化するのではなく、時に大幅なアレンジを加えながら映画的表現に落とし込んでいます。しかしながら、原作の良さも決して損ねておらず、実に見事な手腕でした。

主人公のヨーゼフ・バルトークを演じたのは、『帰ってきたヒトラー』や『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』などのオリバー・マスッチ。彼はこれまで、ナチスに関連する映画に多数出演し、素晴らしい表現力を見せてますが、本作はそれらの比にならないほどの迫力で、過酷な環境をなんとか生き抜こうとする主人公を鬼気迫る演技で熱演していました。

その他『ヒトラー〜最後の12日間〜』のビルギット・ミニヒマイアーや、『西部戦線異常なし』のアルブレヒト・シュッへなど実力のある役者陣が脇を固めています。

アルブレヒト・シュッへは、主人公を監禁するゲシュタポベームと、チェスの世界王者のチェントヴィッチの二役を演じています。この二人の人物を一人で演じることで、主人公が心に負った傷を示すのに効果的な配役となっていました。

 

私見

90点/100点満点中

主人公の精神状態を表現するために加えられた改変要素が実に見事に機能しており、結末も原作とは異なるのですが、ツヴァイクが描いた主人公の心の傷を描写するという意味では、その精神性はしっかりと受け継がれていたと思います。

原作にあった監禁と尋問による心理的拷問描写に若干の物足りなさを感じましたが、それを差し引いても実によくできた脚本だったと思います。

 

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

【原作との比較】

原作では、船に乗り合わせていた乗客が語り手となり、客観的な視点で物語が描かれているのですが、今回の映画版では主人公・ヨーゼフ(原作小説ではB博士と称される)視点で物語が描かれます。この改変が主人公の境遇や精神状態を表すのに非常に効果的な演出となっていました。特にその脚色の効果が現れているのが主人公の妻・アンナをめぐる場面です。

ヨーゼフの妻アンナは、原作には登場しない人物で、映画版オリジナルのキャラクターです。アンナはヨーゼフと共に船に乗りますが、劇中で彼の過去が徐々に明かされると、彼女が最初から船に乗り合わせていなかったことが発覚します。ここから、これまでヨーゼフの視点で描かれていた船での出来事が急に不確かなものとなり、映画を見ている私たち観客も不安を覚えます。こうして主人公を「信用できない語り手」にすることで、彼の精神的なダメージを表現しており、非常に巧みな脚色となっていました。

ナチスドイツがオーストリアに侵攻することを察知し主人公に忠告する友人・ゲオルグも映画版オリジナルのキャラクターです。ゲオルグを人質に取って情報を引き出そうとするゲシュタポの尋問シーンは、主人公にトラウマを植え付け、その後のPTSDのような症状を引き起こさせるきっかけとなりました。

 

クライマックスで描かれる主人公とチェス王者の対局シーンも原作と映画版で異なります。

小説では主人公が世界王者との一戦目の対局に勝利し、調子付いて二戦目を打ち合うことになりのですが、二戦目からは王者が一手打つごとに必要以上に時間をかけ、主人公が苛立ちを募らせます。相手が持ち時間を目一杯消費する間、主人公がは自分の差し手を長考するのですが、次第に精神に異常が生じ始めます。監禁生活中、一人脳内でチェスを打ち合ううちに分裂してしまった精神が、彼の思考に影響を及ぼし、彼が最後にチェックメイトだと思って打った一手は、別の誰かと差し合っているような見当違いなものでした。正気に戻った主人公は負けを認め「私がチェスを試みるのはこれでもう最後とします」と言い残し立ち去ります。

 一方今回の映画版は、主人公が悪夢のような心象風景に襲われながら、極限状態で世界王者と対局し、なんとか勝利を収めます。しかし、ラストシーンで精神病棟にいる主人公が映し出され、船での出来事が彼の空想だったことが明かされます。この終わり方は、ナチスからの尋問に耐え抜いた主人公の精神的勝利であると同時に、原作で描かれたような精神的拷問で壊されてしまった人間の悲しい末路でもある、非常に深みのある終わり方になっていました。

 

【不満点】

原作小説と比較したときに、映画版でやや物足りなく感じたのは、監禁と尋問の日々で追い詰められた主人公が、自分自身への猜疑心に苦しめられる描写です。

映画版では、主人公がナチスに捕まる前に重要書類の預金番号を自分で暗記し、資料を焼却していましたが、原作では一部の証書を家政婦を通じて叔父に手渡しています。

監禁された主人公は、ゲシュタポから貴族の預金資産について尋問されるのですが、ここで下手に答えると家政婦や叔父に危険が及ぶ可能性があり、逆に否認し続けても自分自身の身が危うくなります。主人公は頭を巡らし尋問をかわしますが、本当に最悪なのは尋問を終え、監禁部屋に戻ってからです。尋問の際に自分は迂闊な発言をしたのではないか?生まれてしまった疑念を晴らすために今度はどういうことを言わなければならないか? ゲシュタポがどの程度の情報を手にしているのかも分からぬ状況で主人公は自分の発言を反芻し続けます。監禁部屋には気を紛らわせるものもないため、思考がその事ばかりになり、自分で自分を尋問しているような状況になってしまうのです。このことが主人公の精神的な衰弱に拍車をかけます。映画版ではこの描写が削られていたので、この心理描写をもっと深く描いてほしかったです。

 

【精神の分裂と崩壊】

原作も映画版も、監禁という拷問によって主人公の精神が崩壊していく様を描いていますが、精神が壊れる描写には違いがあります。

原作小説では、主人公が手に入れたチェスの指南書を大事に繰り返し読み続けるのですが、差し手を暗記するほど読み尽くしてしまうと、次第に目新しさを失ってしまい、再び虚無に囚われてしまします。チェスの名手たちの差し手を全て覚えてしまったとなると、残る対戦相手は自分自身しかいなくなります。白い駒を操る自分と、黒い駒を操る自分。手元に駒も無い中で自分の頭の中に二人のチェスプレイヤーを生み出し対極を行う。そんな不可能と思えることを実現しようとするうちに、主人公は人工的な精神分裂を起こしてしまうのです。

一方、映画では自分自身との対話・対局による精神分裂よりも、ナチスから受けた心的外傷を深く描いています。ゲシュタポが主人公から情報を聞き出すために友人のゲオルグを目の前で殺害したり、心の支えだったチェスの本や自作の駒を没収したりと、映画版オリジナルの描写を加え、主人公をとことん精神的に追い詰めています。

映画版の主人公は原作のような精神分裂症(統合失調症)より、PTSD(心的外傷ストレス障害)のような症状に近く、それによって人の心を破壊するナチスの残虐性をより際立てていました。

 

【誰と戦うのか】

主人公はゲシュタポの精神的拷問をチェスによって耐え抜きましたが、チェスに没頭するあまり精神が崩壊してしまった彼は、現実と空想の境が曖昧になります。

船上で起きた出来事は全て主人公の空想ですが、それらは全て監禁時に味わった記憶の投影です。妻のいない空間で孤独に苛まれたり、友人の処刑がフラッシュバックしたりと、監禁時の辛い記憶が、空想の中でも主人公を苦しめます。

故にチェス世界王者チェントヴィッチの姿は、ゲシュタポベームそのものであり、チェントヴィッチに勝利することが、ナチスに屈しなかった主人公の精神的勝利を意味するのです。

元々、原作ではゲシュタポの隊員に関してはそこまで深く描写されておらず、人物名すら記されていないのですが、映画版では、ゲシュタポの隊員にもフィーチャーし、ベームとチェントヴィッチを同じ人物を演じさせることで主人公のトラウマの深さを明確にする実に見事な演出が加えられていました。

オデュッセウスは故郷に帰る】

今回の映画版では、作中で主人公の境遇がギリシャ神話の英雄オデュッセウスになぞらえられます。

オデュッセウスは知略に長けた将軍で、トロイア戦争では「トロイの木馬」の策でギリシャ軍を勝利に導きました。トロイア戦争に勝利したオデュッセウスは、故郷のイタカ島で待つ妻のペネロペの元に帰ろうと航海を始めますが、その航海は戦争以上に過酷なものでした。

ポセイドンからの妨害によって船が難破し帰ることが出来なくなったり、セイレーンの歌によって正気を失ったり、更には太陽神ヘリオスの怒りを買い航海の仲間が全員死んでしまったりと、オデュッセウスの歩んだ旅路は、主人公が監禁生活で体験したことと重なります。

長い旅時の果てにオデュッセウスは故郷へと辿り着き、妻・ペネロペと再会を果たします。

映画のラストシーンでは、主人公が精神病院で妻と並んで座る姿が映し出されます。心が壊れてしまった彼は「君は新しい看護婦かね?」妻に訊ねるほど記憶が覚束なくなっていました。

ナチスによる残虐な行為が人間の精神を破壊し、元の彼の姿はそこにはありませんでしたが、オデュッセウスのように過酷な試練を耐え抜いた彼は、心の故郷に帰ることが出来たのでした。

 

映画『ノック 終末の訪問者』と原作小説「終末の訪問者(The Cabin at End of the World)」(ネタバレあり)

今回紹介する作品は『ノック 終末の訪問者』です。

【あらすじ】

7歳のウェンとその両親エリックとアンドリューは、人里離れたキャビンで休暇を過ごしていた。ある日、森の中でバッタを捕まえて遊ぶウェンの元に、一人の大男が訪ねてきた。レナードと名乗るその男は「友達になりに来た」とウェンに言い、ウェンと友好的にふれあうが、彼の後ろから禍々しい武器を持った男女がぞろぞろと現れる。怯えたウェンはキャビンに入り、エリックとアンドリューに助けを求めに行くが、キャビンに戻ろうとするウェンにレナードは「君たち家族はある決断を下さなければならない」と告げる…

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【原作】

原作はポール・トレンブレイの小説「終末の訪問者(原題:The Cabin at End of the World)」です。

これまでにブラム・ストーカー賞や英国幻想文学大賞などを受賞しているポール・トレンブレイですが、彼の本業は、小説家ではなく高校の数学教師です。執筆活動は日々の空き時間1時間ほどを使って書き進めるというスタイルだそうで、教師と小説家の兼業を続ける理由として、若者と触れ合うことで子供や10代の描写がリアルになることや、安定した収入があることで商業主義にならず好きなものを書くことができることなどを挙げています。その言葉の通り彼の作品は非常に独自性の強いものとなっています。

若いときに「IT」を読んで以来、スティーブン・キングを敬愛しているトレンブレイは、ホラー・SF作家として才能を開花させ、2015年に発表した『A Head Full of Ghosts』は尊敬するキングからSNSで絶賛されました。(ちなみに、スティーブン・キングに映画『カメラを止めるな!』をおすすめしたのはトレンブレイだそうです。)

小説『終末の訪問者』の発表にあたってトレンブレイは「映画のオーディオコメンタリーのように、小説にも作者の解説があってもいいだろう」ということで、小説の“ライナーノート”をブログにあげています。

興味のある方は是非読んでみてください↓

The Cabin at the End of the World liner notes | Paul Tremblay (the online version!)

 

【スタッフ・キャスト】

監督を務めたのは『シックス・センス』や『サイン』でお馴染みのM・ナイト・シャマラン監督です。

シャマラン監督は、独自の作家性やトリッキーな作劇などで、多くの映画ファンを魅了してきた監督です(時には叩かれたりもしていますが…)。

シャマラン監督にとっては前作『オールド』に続き2作連続となる原作のある作品で、今回も自らが脚本に参加しています。

映画の中盤以降の展開は原作から大きな改変を加えていますが、原作者のトレンブレイからは「私が最初に考えていた案だ」とお墨付きをもらったそうです。

ちなみにシャマラン監督といえば、自身の監督作品に役者として出演することでもお馴染みですが、本作のあるシーンにも登場しています。是非探してみてください。

本作の中心人物となる少女・ウェンを演じたのは、クリステン・キュイ。本作が初めての長編映画となる彼女は、デビュー作とは思えないほど自然な演技をしており、原作で描かれる利発な少女そのものでした。

ウェンの両親、エリックとアンドリューを演じたのは、ジョナサン・グロフとベン・オルドリッジ。同性同士のパートナーを演じた二人は、共にゲイであることを公表しており、ジョナサン・グロフは15年前、ベン・オルドリッジは3年前にカムアウトしています。実際の性的マイノリティのキャラクターを当事者が演じるのはとても誠実なキャスティングで、エリックとアンドリューの二人が互いを思い合う感情に説得力が増していました。

4人の訪問者を演じたのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのデイヴ・バウティスタ。『ハリー・ポッター』シリーズのロン役で知られるルパート・グリント。シャマラン監督の前回作『オールド』にも出演したニキ・アムカ=バード。シンガーソングライターとしても活躍するアビー・クイン。彼らは「世界の終焉を防ぐために一家に犠牲を強いる」という、善良とも邪悪とも受け取れる難しい役柄を誠実に演じていました。

 

私見

78点/100点満点中

予測不能なな作劇を得意とするシャマラン監督の資質と、原作小説の狂気的ともいえる訪問者たちの言動が上手くマッチし、とてもスリリングな映画に仕上がっていました。

映画のラストは原作小説と大きく異なりますが、個人的は映画版のエンディングの方が好みでした。

しかし、原作由来の物語とはいえ、陰謀論者が先鋭化し過激派集団となっている昨今、「荒唐無稽な終末論を語る集団が実は正しいことを言っていた」というストーリーは、かなり危なっかしいんじゃないかと感じました。

 

 

 

以下ネタバレ有り

 

 

 

【原作との違い】

映画版『ノック 終末の訪問者』は、前半部は原作に沿って展開しています。レナードとウェンの出会いから、訪問者たちによる山小屋への侵入、一家の誰かが犠牲を払わなければならないという状況説明、そしてレドモンドの殺害。ここまでがほぼ原作通りに進みます。

原作と大きく異なってくるのが中盤からの展開です。映画版では、訪問者の一人であるエイドリアンが、仲間たちの手によってによって殺められていましたが、小説では拘束から抜け出したアンドリューが車の中から銃を取り出し、襲いかかってきたエイドリアンを射殺しています。

そして、原作小説で最も衝撃的なのがこの後の展開です。エイドリアンを殺めてしまったアンドリューが呆然としていると、レナードが銃を奪おうと飛びかかり、二人は揉みあいになります。そして、奪い合い末に銃が暴発し、不幸にもその銃弾は娘のウェンを顔面を射抜き、幼い命を奪ってしまうのです。

言葉を失うような展開ですが、さらに輪をかけて最悪なのがウェンの死はあくまで事故であり、一家の選択によるものではないので、世界の崩壊は続いているということです。

その点、映画版では幼い子供が死ぬことはなかったので、少しシャマラン監督の良心のような物を感じました。(まぁ、別の人物が犠牲となっているのですが…)

映画版ではサブリナがアンドリューによって射殺されていまいたが、原作でのサブリナは、一家に犠牲を強いる残酷なやり方に良心が揺らぎ、アンドリューに対して「あなたとエリックがここから出るのを手伝うわ」と提案しています。レナードは二人を逃そうとするサブリナを止めようと呼びかけますが、彼女はエリックとアンドリューを救うため、凶器でレナードを殺害します。

3人となったエリックとアンドリューそしてサブリナは、キャビンを出て、訪問者たちが乗ってきた車に向かうのですが、その道中で何かの啓示を受けたようにサブリナの様子がおかしくなり、レドモンドが隠していた銃を見つけると、その銃で自殺してしまします。

今回の映画版では、原作でのサブリナのように、エリックとアンドリューに寄り添おうとするキャラクターが不在となったため、犠牲を強いることに対しての訪問者側の葛藤が薄らいでしまったように感じました。

映画のラストではエリックが犠牲となる使命を選び、世界の崩壊を止めていましたが、原作のオチは全く異なります。

原作では、サブリナの死後、エリックは彼女が使った銃を拾い上げ、自分の命を絶とうとしますが、アンドリューがそれを許しません。エリックは世界の崩壊が起こることを確信しており、アンドリューもこの状況が理屈では説明がつかないと半ば感じてはいるのですが、その事実を必死に否定し、もし世界が滅ぶ運命にあったとしても「僕たちはお互いを傷つけるようなことはしない」と断言します。

絶望の只中にいるエリックが「僕らはどうなる?これ以上は進めない」と言うと、アンドリューは「進んでいくのさ」と答え、世界の破滅が始まろうとも2人で生きていくのだという決意が示され、物語は終わります。

これから世界の終焉が始まることを考えると、絶望的な終わり方ではありますが、2人が絶対に互いを犠牲にしないという、愛を貫いたともいえるオチになっていました。

 

【7という数字】

今作の中で重要なファクターとなっているのが7という数字です。

原作者のポール・トレンブレイがライナーノートに記している通り、この作品は7という数字にこだわって作られています。ウェンの年齢や、ノックの回数、主要な登場人物の数、訪問者たちの名前をアルファベット表記したときの文字数など、至る所に7という数字が散りばめられています。

原作ではバッタを7匹も捕まえたことを自慢するウェンに対して、レナードが「パワーにあふれた魔法の数字だ」と言い、ウェンが「ラッキーな数字じゃないの?」と訊くと、「いいや、ラッキーなのはときどきさ」答える場面があります。このように本作において”7”は不吉な数字として扱われています。

7という数字は新約聖書の『ヨハネの黙示録』で象徴的に使われている数字です。『ヨハネの黙示録』は神の裁きによって訪ずれる世界の終末を記したもので、子羊(キリスト)が封印を解いたことによって起こる厄災を記した”7つの封印”、天使たちがラッパを吹くことによって起こる厄災を記した”7つのラッパ”、神の激しい怒りが満ちた鉢を天使が注いだことで起こる最後の厄災”7つの鉢”と、世界の終末が7という数字とともに預言されています。

このように、本作はキリスト教的終末論が、物語のベースとなっています。

映画では端折られていましたが、原作ではウェンがレナードに対して、「誰があなたにこんなことをさせてるの?」と訊ねる場面があります。その問いに対してレナードは「神」と一言答えます。レナードをはじめとして、訪問者たちは皆信仰にあついわけではありません。しかし、彼らが見た未来のビジョンはは人智を超えた強烈なもので、神の裁きだとしか思えないからこそ、彼らの行動には迷いがないのでしょう。

また、映画版オリジナルの要素として、レナードがバスケットボールチームの教え子たちの写真を見せたり、エイドリアンが自分に息子がいることを訴えたりするシーンが加えられていますが、そのような守らなければいけない人たちの存在が、世界の崩壊を止めようとする彼らの使命感を強めていて、より切実さが感じられました。

 

黙示録の四騎士

映画のクライマックスでは、世界の終末が訪れることを確信したエリックが、4人の訪問者を「黙示録の四騎士だ」といいます。

"黙示録の四騎士"とは前述した『ヨハネの黙示録』の7つの封印の章に記されている4人の騎士(正確には騎士ではなく"馬に乗る者")で、7つの封印のうち、はじめの4つの封印が解かれた時、騎士が1人ずつ現れます。

1つ目の封印を解くと現れるのが、"支配"を象徴する白い馬の騎士。2つ目の封印を解くと現れるのが、"戦争"を象徴する赤い馬の騎士。3つ目の封印を解くと現れるのが、"飢餓"を象徴する黒い馬の騎士。4つ目の封印を解くと現れるのが、"死(病)"を象徴する青白い馬の騎士です。

原作でも訪問者たちが黙示録の四騎士であることを想起させるような箇所はあるのですが、映画版では4人の訪問者それぞれ役割を明確に四騎士に準えています。

バスケットボールチームのコーチを務めるレナードは、四騎士でいうなれば、"支配(映画内では"導き"と表される)"を司る役割で、ゲイであるアンドリューにヘイトクライムを仕掛けた過去があるレドモンドは"戦争(映画内では"恨み")"を司っています。ウェンに食事を与えたエイドリアンは"飢餓(映画内では"養い")"、エリックを手当した看護師のサブリナは"病(映画内では"癒し")"とそれぞれが四騎士に準じた役割を担っています。

 

【終末】

上記のようなキリスト教的終末論などから、本作は宗教的なプロパガンダ色の強い作品に感じられますが、シャマラン監督自身は特定の信仰はないといいます(本人はカトリック系の学校を卒業していますが、両親はヒンドゥー教徒だそう)。

シャマラン監督は「宗教や神話はストーリーテリングの一種」と語っており、宗教や終末論という要素も監督にとっては面白いストーリーを作るための材料に過ぎないようです。また監督は「僕はこの世の中がダークで邪悪だと思っていない。むしろこの世界は慈悲深い場所だ」とも語っています。故に、終末論を題材とする映画であっても、物語を悲観的なものに終結させず、希望を残して終わらせることにこだわったのでしょう。

前述したように、本作は原作小説と映画で大きく異なる結末を迎えます。

エリックとアンドリューが互いの犠牲を選ばなかった原作に対して、映画版ではエリックが自ら犠牲となり世界の崩壊を阻止します。

クライマックスでエリックが見る、アンドリューとウェンの未来のビジョンは、映画オリジナルのものです。最愛のパートナーを失うことは二人にとって無慈悲で残酷な選択であり、自分自身の一部を失うような辛い痛みを伴うものです。しかし、ウェンがささやかでも幸せに生きられる世界があるのであれば、命を賭してでもこの未来を守らなければならないとエリックは思ったのでしょう。

シャマラン監督は自身の作家性について「暗い物語をたくさん作れるのは、人や世界に対して前向きな思いを深く感じているから」とも述べています。幸せな世界を信じるからこそ、それが奪われ壊される恐怖を感じるのであり、逆説的にいうと暗澹たる世界の中でこそ、絶対に譲れない幸せが見つけられるのかもしれません。

映画『魔女がいっぱい』と原作小説『魔女がいっぱい(原題:The Witches)』(ネタバレあり)

今回紹介する作品は

『魔女がいっぱい』です。

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あらすじ

 交通事故により両親を亡くしてしまった少年は、おばあちゃんの家に引き取られ、2人で暮らすこととなった。少年は、両親の死以来ずっと心を閉ざしていたが、優しいおばあちゃんのおかげで、少しずつ心を開くようになっていく。そんなある日、少年は買い物に出かけた店で、怪しげな女と遭遇する。おばあちゃんにその不気味な女の話をすると、「その女は魔女だ」とおばあちゃんは言い、自分が幼いころ、友達が魔女の手によってニワトリに変えられてしまったことを少年に話した。二人は魔女の手から逃れるためにアメリカ南部のホテルへと避難するが、そのホテルでは魔女たちの集会が行われ、この世から子供を消すための計画が企てられていた…

 

原作

原作はロアルド・ダールの小説『魔女がいっぱい』(原題:The Witches)です。 

 ロアルド・ダールは、チャーリーとチョコレート工場の原作である『チョコレート工場の秘密』や、ファンタスティックMr.Foxの原作である『父さんギツネバンザイ』などの児童文学作品で有名な作家です。

 ロアルド・ダールは、ファンタジックな世界の中に、ブラックユーモアや狂気性が見え隠れする作風が持ち味の作家です。子供向けのハートフルな作品でも、時折ギョッとする様な描写があり、その気の抜けなさが彼の作品の面白さでもあります。

 ダール作品は自身の経験を投影した物語が多いですが、『魔女がいっぱい』は特にダールの出自や思い出が反映されています。ノルウェー人の両親の元に生まれ、イギリスで育った設定や(映画版の主人公はアメリカ人でしたが)、サーカスの団員に憧れ、ペットのネズミに綱渡りを覚えさせるシーンなどは作者の体験が元になっています。また、本作に登場する魔女は、ダールの少年時代、近所の菓子屋で店番をしていた子供嫌いの鬼婆のような女がモデルになっているそうです。ダールは、その意地悪な店番への仕返しとして、菓子瓶の中にネズミの死骸を入れたりしていたそうです(いや、やりすぎ…)。そのようなダールの少年期の思い出から生まれたのが、本作『魔女がいっぱい』です。

 本作の映画化は1990年の『ジム・ヘンソンのウィッチズ/大魔女をやっつけろ!』に続いての2回目の映像化となります。

 

スタッフ・キャスト

 本作のメガホンを取ったのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』などの名匠、ロバート・ゼメキス監督です。

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本作は、ゼメキス監督が今まで手掛けてきた作品のエッセンスがふんだんに盛り込まれています。『ポーラー・エクスプレス』や『Disney'sクリスマス・キャロル』で手掛けた児童文学の映像化や、『永遠に美しく』で描いた魔女的なモチーフ、『ロジャー・ラビット』で描いた動物と人間のコミカルなドタバタ劇など、監督の過去作に通ずる要素がてんこ盛りで、ゼメキス作品が好きな人にはたまらない一本となっています。

 脚本には、コメディ作品を得意とする新鋭の脚本家ケニヤ・バリスの他に、『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』などでお馴染みのギレルモ・デル・トロ監督が参加しています。

 さらに製作には『ゼロ・グラビティ』や『ROMA/ローマ』のアルフォンソキュアロン監督も加わっており、最強のクリエイターたちが集まった作品となっています。

 主人公の少年を演じたのはジャジール・ブルーノ。本作撮影時まだ9歳だったのですが、演技は堂に入ったもので、特にネズミに変えられた後の愛嬌とたくましさが同居した声の演技が素晴らしかったです。

 主人公のおばあちゃんを演じたのは名優オクタビア・スペンサー。優しくも時に厳しいおばあちゃんを、愛嬌たっぷりに演じており、主人公が心を開いていく展開にここまで説得力を持たせられるのは彼女以外いない気がします。

 そして、本作において最も重要なキャラクターである大魔女を演じたのはアン・ハサウェイ。彼女は幼いころからロアルド・ダールの大ファンだったそうで、ダール作品の恐ろしいキャラクターを演じることに嬉々としていたそうです。原作の大魔女は喋り方が独特で、強いなまりがあり、は行とら行の発音にクセがあるのが特徴です。アン・ハサウェイは、アクセントのコーチとともに様々な喋り方にアプローチし、最終的に8世紀から14世紀にかけてスカンジナビア人が用いていた古クルド語のアクセントに到り、Rで舌を巻くような発音にしていったそうです。

 

私見

72点/100点満点中

 本作は、原作小説にきちんとリスペクトをもって映像化してあるのが伝わり、ダールの意思を汲んだ結末にも、大変好感が持てました。

 所々に加えられた改変も、現代の時世や長年の社会問題などを反映したものになっており、全体的に良いアレンジに仕上がっていたと思います。

 ただ、魔女の造形に関しては、現実社会で苦しむ人たちへの配慮を欠いていたように思い、非常に残念でした。

 

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

原作との比較 

 映画版の大筋は、原作小説の流れを準えて進みます。大まかな展開は原作通りなのですが、1980年代に発表された原作小説の現代的な再解釈や、映画オリジナルのアレンになどが所々に散りばめられています。

 原作からの大きい改変点としては、作品の舞台がイギリスとノルウェーからアメリカ南部に変わっていることや、主人公が飼うペットのネズミが魔女によって姿を得られた少女だったという設定などが挙げられます。

 また、原作のクライマックスは、主人公がスープの中にネズミニナールを混ぜ、ホテルで食事していた魔女たちが全員ネズミに変えられて決着がつくのですが、映画版は、主人公たちが大魔女と直接対決するシークエンスが加わっています。主人公たちの勇気とチームワークによって大魔女を倒すため、原作よりもエモーショナルな展開になっていました。

 下っ端の魔女が大魔女に焼き消される描写など、子供向けの作品にしてはかなりショッキングなシーンも原作小説からしっかりと踏襲されていて、マイルドな表現に逃げない姿勢に好感が持てました。主人公がネズミに変えられてしまうシーンは、原作小説以上に恐ろしく描かれており、子供たちのトラウマになりかねないレベルになっています。原作から端折られたショックシーンとしては、ネズミになった主人公が、調理場のコックに尻尾を切られてしまうシーンなどがカットされていました。

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 ネズミに変えられてしまった主人公が人間の姿に戻らないという結末は原作小説そのままです。本小説の最初の映画化となった、1990年の『ジム・ヘンソンのウィッチズ/大魔女をやっつけろ!』では、ネズミに変えられた少年が、善良な魔女によって再び人間の体を取り戻すというオチに改変されており、原作者のロアルド・ダールはこの改変にひどく不満を抱いていたそうです。そのため、ネズミとして生きていくことを選ぶ今作の結末は、ロアルド・ダールの意思をしっかりと受け継いだものとなっています。ただ、原作小説の主人公は、自分の姿がネズミに変えられてしまったことを割とすんなり受け入れていて、人間の体を取り戻すという考えが一切ないところが少々飲み込みづらくもありました。今回の映画版では、大魔女の部屋から盗み出したネズミニナールを調合し、人間に戻ろうと試みる様子が描かれていたので、主人公の心情の変化が原作小説よりは飲み込みやすくなっていたと思います。

 

 不満点

 この映画の最大の欠点は、すでに社会的な問題にもなっているのですが、やはり魔女の造形に関することでしょう。

  原作で描かれる魔女は、頭が禿げ上がっており、手には細長く曲がったかぎ爪があり、つま先がなく、鼻の穴が大きいなどの特徴があります。対して今作は原作に忠実な部分もあれば、手の指が3本しかないなどの映画版オリジナルの要素もあるインパクトの強い造形になっています。

 しかし、手足の指がないといった身体的特徴は、現実社会にある裂手裂足症などの障害を彷彿とさせるもので、それが残忍な魔女の特徴とされていることはやはり看過できませんでした。(この件については、ワーナー・ブラザースおよび大魔女を演じたアン・ハサウェイが謝罪のコメントを発表しています。)

 今回の映画版で描かれる魔女は、全体的に現実社会で暮らす人々とリンクしないようにする配慮が欠けていたように思います。極悪非道な悪役を描くのであれば、身体障害者や女性といった社会的弱者とされる人々となるべく結びつかないような現代的な再解釈がもう少し必要だったのではないかと思います。 

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 映画のエピローグで描かれる、ネズミに変えられた主人公がおばあちゃんと共に世界中の魔女を退治しに行くという展開は原作に沿ったものなのですが、原作小説では主人公とおばあちゃんが二人で魔女退治に出かけようとしていたのに対し、映画版は主人公が他の子どもたちを扇動し、一緒に魔女を懲らしめようと呼びかけています。一応、主人公は魔女たちの居場所が記されたリストを入手しているというエクスキューズはあるのですが、子供たちを焚きつけるこのシーンは悪い意味での“魔女狩り”を想起してしまい、要らぬ不安感を抱いてしまいました。(これに関しては私の考えすぎかもしれませんが…)

 

おばあちゃんのポジティブ思考

 原作小説内では、主人公やおばあちゃんの人種や肌の色について、特に言及はないのですが、本の挿絵には白人の少年とおばあちゃんが描かれているため、今回の映画版で黒人を主人公に据えたことも一つ大きな改変といえるかと思います。

 この改変により、おばあちゃんのキャラクター性は、原作以上に深みのあるものになっていました。

 映画版の時代背景は、アフリカ系アメリカ人たちの公民権運動の機運が高まりだした1960年代で、舞台はアメリカ南部の保守的な土地であったアラバマ州です。主人公とおばあちゃんがホテルを訪れた際の、支配人のやや怪訝そうな態度からも、黒人に対して寛容でなかった当時の風潮や、魔女が悪事を働いたとしてもこちらの味方をしてくれなさそうという不信感が感じられます。

 このような些細な演出から、おばあちゃんの明るくポジティブな性格は、きっと過去に黒人女性として多くの苦難やつらい経験を乗り越えてきたからこそ生まれたのだと感じられます。そして、そのおばあちゃんのポジティブな思考が孫である主人公にも伝染し、その前向きさや勇気が結果的に魔女を打ち倒した一つの要因ともなっています。

 映画のラストでは、大魔女を倒したおばあちゃんが、ホテルで働く黒人従業員たちに、チップを配つシーンが描かれており、おばあちゃんが掴み取った幸せをみんなにおすそ分けしているように感じられ、希望に満ちた終わり方になっていました。

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家族のあり方

金持ちの息子で食いしん坊のブルーノは、その食い意地のせいで魔女たちの罠にはまり、ネズミに変えられてしまいます。原作小説のラストでは、ネズミになったブルーノを、ネズミ嫌いの彼の母親に押し付け、親元に返すのですが、映画版ではブルーノを母に押し付けるようなことはせず、主人公と共に楽しく暮らすという結末に変えられています。この改変は、血縁主義や縁故主義にとらわれない、家族のあり方についての現代的な再解釈のように思え、とても好感が持てました。 

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 主人公の少年は交通事故によって両親を亡くしており、白ネズミに変えられてしまった少女・メアリーは、孤児院を抜け出した身寄りのない子供です。このように今回の映画版の中で登場する子供たちは、両親を亡くしていたり、親から見捨てられたりと、全員が一度家族を失ったた子供たちです。そんな彼らが、従来の形にとらわれない新しい家族を形成していくというのが本作の面白さになっています。児童向けのストーリーのように見えて、実は喪失した者たちの再生の物語という重厚さが胸を打ちます。

 

外見ではなく本質を、絶望ではなく希望を

 本作を鑑賞した多くの人が驚くのが、ネズミに変えられた主人公が人間の姿に戻らないという結末でしょう。前述したとおり、1990年の映画版ではネズミになった主人公が人間の姿を取り戻すというオチになっており、これに対してダールは「重要なのは外見ではなく、その人の本質を愛せるかどうかなのに」と憤慨したそうです。

 原作小説では、ネズミになってしまった主人公が読者に向けてこう語ります。

ぼくが、どうしてがっくり落ち込んだいないのか、君たちはふしぎに思っているだろう。ぼくは、色々と次のようなことを考えていたのだ。男の子だということはなにがそんなにすばらしいのだろうか?男の子だということが、なぜ、絶対的にネズミよりましだと言えるだろうか?

そして、ネズミになったで姿をおばあちゃんと再会した時、主人公はこう語ります。

ぼく、正直言って、これが特別いやって感じないんだ。しゃくにさわりもしないんだ。ほんとのところ、かなり愉快なんだよ。もう男の子ではないし、二度と男の子になれないってわかってるけど、僕の世話をしてくれるおばあちゃんがいてくれたら、ぼく、ぜんぜん平気だもの。

 主人公にとっての幸せとは、男の子の姿で生きることではなく、自分のことを愛してくれるおばあちゃんと一緒にいることで、それこそが彼にとっての世界の本質なのです。

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 この物語の特異な点は、主人公たちが絶望的な状況に置かれても、失意に飲み込まれないところです。

主人公も、両親を亡くしてすぐは、厭世的な気持ちに苛まれていましたが、明るいおばあちゃんのおかげで世界に希望を見出し、ネズミになっても悲観的にはならず決して希望を見失いませんでした。

表面だけを見れば絶望的に思えることでも、本質を見据えれば必ず希望はある。そんなことをダール作品は教えてくれるのです。

映画『窮鼠はチーズの夢を見る』と原作漫画「窮鼠はチーズの夢をみる」&「俎上の鯉は二度跳ねる」(ネタバレあり)

今回紹介する作品は『窮鼠はチーズの夢を見る』です。 

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あらすじ

 優柔不断な性格ゆえに、流されるがまま不倫を繰り返してきた会社員・大伴恭一。そんな彼の務めるオフィスに、大学時代の後輩・今ヶ瀬渉が現れる。興信所の浮気調査員として恭一の妻から不倫の調査依頼を受けていた今ヶ瀬は、恭一に不倫現場を抑えた写真を突きつけ、浮気の事実を隠蔽する代わりにカラダの関係を要求する。最初は抵抗したものの、やむを得ず今ヶ瀬の要求に応える恭一。これで家庭の平穏は保たれたかと思ったが、恭一は妻から一年前から付き合っている男がいることを明かされ、別れを切り出される。こうして独身となった恭一は一人暮らしを始めることとなるが、恭一の家には今ヶ瀬が転がり込むようになり…

 

原作

原作は、水城せとなの同名漫画『窮鼠はチーズの夢を見る』とその続編『俎上の鯉は二度跳ねる』です。

 水城せとな先生は、『失恋ショコラティエ』や『脳内ポイズンベリー』など、恋愛作品を多く手掛けており、人が人を愛するときの、喜びや痛み、苦しみを繊細な心理描写で描き出す天才作家です。

 水城先生は少女漫画誌からレディースコミック、更には青年誌まで、幅広い雑誌で活動してきた作家で、読者の共感を呼び起こす作家性から、多くのファンを獲得してきました。

 小学館講談社集英社などあらゆる出版社で連載を持った経験があり、各社から引っ張りだこの超人気作家です。少年誌で例えるなら、ジャンプでもサンデーでもマガジンでも連載経験がある漫画家といったところですね。

 本作は小学館コミック誌『Judy(現在休刊中)の増刊号『NIGHTY Judy』に連載されていた作品です。『NIGHTY Judy』はリアルな性愛描写があるのが特徴の女性向けコミック誌で、本作も同性同士のセックス描写が微細に描き込まれており、性交中の体位からも、二人の関係性の変化が読み取れるようになっています。

 ただ、今発刊されている『窮鼠~』と『俎上の鯉~』のコミックスは、最初に刊行されたバージョンから修正が加えられており、性描写がややマイルドになっているそうです

 

スタッフ・キャスト

本作のメガホンをとったのは『世界の中心で愛を叫ぶ』や『ナラタージュ』の行定勲監督です。

 人を愛することでどうしようもなくなっていく人間の悲喜を描き続けてきた行定監督だけあって、本作のテーマと監督の作家性がぴったりはまっていたと思います。また原作にあったリアルな性描写も、曖昧な表現やカットに逃げることなく、しっかりと映像化しており、とても好感が持てました。

 脚本を担当したのは『ナラタージュ』や『真夜中の5分前』でも行定監督とタッグを組んだ堀泉杏。本作の映画化の話はこれまでにもあがっていたそうなのですが、映像化にあたって、原作のストーリーから「キラキラ美化」された物語に改変されていたら、水城先生が映画の制作を断っていたそうです。そんな水城先生をも納得させるストーリーに仕上げたのは、脚本家の手腕と言えるでしょう。

 主人公・大伴恭一を演じたのは大倉忠義。優柔不断で、吹けば飛びそうなほど自分のない男をしっかり演じており、大倉さんが演じる主人公のどこに転がるかわからない心許なさが、作品の面白さを増幅させてていました。男性とのキスは舞台「蜘蛛女のキス」でも経験があったそうなのですが、本作の濡れ場ではかなり体を張っていて、そこまでやるんだ!と感嘆させられました。

 そして恭一のことを想い続ける後輩・今ヶ瀬を演じたのは、成田凌。恭一に必死に尽くそうとする犬っぽさと、突然フッといなくなってしまいそうな猫っぽさの両方を持ち合わせた見事な演技で、正直メチャクチャかわいかったです。

この2人のキャスティングは、まさにBLの一昔前の呼び名である「耽美」を体現していたと思います。

 

私見

75点/100点満点中

 本筋は原作のストーリーをきちんと準えながらも、映画版オリジナルのラストシーンは原作以上に切なさが増しており、良い味わいの映画に仕上がっていました。言葉で多くを語らせない演出も冴えていて非常に良かったです。

何より主演二人がイチャイチャする様を眺めているだけで眼福でした。

 原作コミックにあったハードな性描写もしっかりと踏襲しており、作者へのリスペクトも感じられました。

 ただ、個人的に好きな原作のキャラクターが映画版ではかなり嫌な感じに描かれていたのが引っ掛かりました。

 

 

 

以下ネタばれあり

 

 

 

 

原作との比較

 原作ではモノローグで主人公の葛藤や心情の変化などが描かれているのですが、映画版はモノローグによる心情描写はなくし、説明過多になり過ぎない絶妙なバランスで作られています。原作の詩的な心情表現や、恭一の心の中で黒恭一と白恭一が言い争うシーンも好きなのですが、心情を表現しすぎない映画版の演出は、コミックと映画という媒体の違いをきちんと理解し、丁寧に映像化しているように感じられました。

 

 映画版は多少の省略や改変はあるものの、大筋は原作のストーリーに沿って進みます。原作からは、恭一が同窓会で再会した同級生と関係を持ってしまう展開や、今ヶ瀬と別れた恭一が、たまきの前で涙を見せてしまうシーンなどが端折られていましたが、原作既読者から見ても違和感のない再構成になっていたと思います。

 原作から最も大きな改変が加えられていた点は、恭一と今ヶ瀬が別れた後の展開です。

 原作には恭一の新しい恋人となったたまきがストーカー被害に悩まされ、今ヶ瀬に調査を依頼するという展開があります。たまきがストーカーに襲われケガを負い、恭一が病院に駆けつけると、そこに居合わせた今ヶ瀬と再会を果たします。恭一と二人きりになった今ヶ瀬は、思いの丈を涙ながらににぶつけ、そんな今ヶ瀬が愛おしくなった恭一は、唇を奪い、再び体を交わします。そして、たまきに別れを告げる決意をするというのが原作の流れです。原作では、ケガを負ったたまきに恭一が別れを告げることで、彼が情に流されなくなったことを表していましたが、いくらなんでもたまきが可哀想だろうと思っていたので、ここをカットしたのは個人的には英断だと思いました。(フラれたたまきが気丈にふるまう原作のシーンも泣けるのですが…)

 たまきに別れを告げた後、恭一が家に帰ると、今ヶ瀬は消え去っており、ごみ箱には二人が共に過ごした証である灰皿が捨てられていました。原作では、今ヶ瀬がバスで去ろうとしたところに恭一が現れ、「男ならいい加減腹くくれよ、こっちはもうとっくにくくったぞ」と自分の覚悟を伝えます。二人は再びヨリを戻しますが、両者ともこの関係が永遠に続くものだとは思っておらず、いつか来るかもしれない終わりに向けて、二人の恋が続くことが示唆されます。

 対して映画版では、二人はヨリを戻しておらず、今ヶ瀬は他の男に抱かれながら恭一を思い涙を流し、恭一は一人になった部屋で今ヶ瀬が帰ってくることを信じてただ待つ様子が描かれてます。原作とは対極的な終わり方ですが、原作よりも切なさが増した映画版のラストシーンも好きでした。

 

 あと、些細なシーンですが、二人がが乳首あてゲームでじゃれ合う映画版オリジナルのシーンも良かったです。

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 不満点

  恭一をめぐって、元カノの夏生と今ヶ瀬がいがみ合うシーンは原作にもあるのですが、原作にあった大事なシーンをカットしたことで、夏生がただの嫌な女として描かれているのが気になりました。

 原作では、恭一が夏生を選んだ次の日、今ヶ瀬は同居していた家を立ち去り、連絡もつかなくなってしまいます。恭一はそのことを夏生に話し「どんだけ粘ってもやらせなかったから、あいつもさすがにアホらしくなったんじゃないか」「ノーマルな男を食ってみたかっただけだろうな」などと自分の虚しさをごまかすために、今ヶ瀬を貶めた物言いをしてしまいます。そんな恭一に対し、夏生は「今ヶ瀬はそんな子じゃないよ」とキッパリ言い放ちます。こんな良いシーンがあったのに映画版では丸々カットされていました。

 夏生は今ヶ瀬にとっての恋敵ではあるものの、決して性悪な女ではないので、映画内での一面的な描かれ方はかなり不満でした。(原作コミックの巻末には、今ヶ瀬と夏生が互いの近況を語り合い、恋バナに花を咲かせる後日譚も描かれていたりしています。)

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  今ヶ瀬と別れた恭一がゲイバーに行くシーンは、映画版オリジナルのものです。今ヶ瀬を失った恭一の喪失感が表れたシーンではあるのですが、恭一に声をかけてくるゲイバーの客の描かれ方があまりにもステレオタイプすぎて、ゲイの方への偏見を助長しかねない気がました。こんなシーンでなくても、恭一の喪失感は描けると思うので、他にやりようがあったのではないかと思います。

 

好きになる理由

 優柔不断な性格の恭一は、流され侍というあだ名をつけられるほど主体性のない男です。恭一自身も自分が立派な人間ではないことを自覚しており、「俺はお前がこだわるような男じゃない」と今ヶ瀬に言いますが、今ヶ瀬は「見た目が綺麗で、人間ができていて、自分にいい思いをさせてくれる。そんな完璧な人をみんな探してると思ってるんですか?」と言い返します。このセリフの通り、今ヶ瀬が恭一に抱く慕情は、理屈では言い表せないものです。

 今ヶ瀬が恭一を愛する理由は説明の難しいものですが、映画版では恭一が時折とるさりげない言動に、今ヶ瀬が惚れてしまってもしょうがないと思わせる演出がなされています。テレビを見ながらふいに今ヶ瀬の髪をなでたり、今ヶ瀬が咥えているタバコを取ってごく自然な流れで間接キスしたりと、些細な行動ではありますが、ちゃんと恭一が今ヶ瀬のことを受け入れていることが伝わる演出が加えられていました。

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中途半端だから残酷

 周囲に流されるがままに生きてきた恭一は、今ヶ瀬にじわじわと流され、自分の性的指向でないにもかかわらず同性同士で体の関係を持ってしまいます。本来同性愛者ではない恭一にとって、今ヶ瀬は恋人になりえないので、恭一が今ヶ瀬を拒絶してしまえば、二人の関係は終わるのですが、二人で過ごす時の居心地よさや、今ヶ瀬が自分のことを好いてくれているという情から、恭一はその関係をズルズルと続けていきます。

 恭一の優柔不断な性格は、自ら決断しないことで自分の逃げ道を確保してきた小狡さと、相手を拒絶することで傷つけたくないという優しさの二つの面があります。しかしその中途半端さが、恋人にも他人にもなれない今ヶ瀬を苦しめるのです。

 苦しい思いをずっと抱えながら過ごしてきた今ヶ瀬は、恭一とたまきが良い関係になっているのではないかと不安に駆られ、恭一に「貴方じゃだめだ…」言ってしまいます。そして二人は一度別れることとなります。

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  恭一の優柔不断な性格が変化していく様子が分かるのが、セックス中の体位です。最初は、なされるがままに今ヶ瀬に体を貪られていた恭一ですが、二人の関係が深まっていくと、今ヶ瀬に挿入を許すようになり、二人がヨリを戻した後は、恭一自ら今ヶ瀬に挿入するようになります。

 このように、セックス中の体位で恭一が徐々に主体性を持ち始めていく様が描かれており、ずっと受け身だった恭一が、攻めに転ずる姿は、優柔不断な性格から脱却し、今ヶ瀬と生きてくことを決めた決意表明のように感じられました。

 

恋愛は業だ

  一度は今ヶ瀬と別れ、たまきと円満な家庭を築こうとしていた恭一でしたが、結局はお互い離れることができず今ヶ瀬と再び関係を持ってしまいます。

 原作漫画には、恭一が心の中で「恋愛は業だ」と呟くセリフがあります。このセリフは、今ヶ瀬のことが手放せないと悟り、婚約者のたまきに別れを告げることを決めた恭一の押し潰されそうな胸の内を表したセリフです。たまきを愛しているという気持ちに偽りはないものの、それでも今ヶ瀬のことを選んでしまう恭一の苦悶する心情が描かれています。

 対して映画版では、原作コミックとは少し違った形で「恋愛の業」が描かれています。映画版の恭一は原作よりも、たまきへの愛が薄いように感じられます。たまきと一緒にいても心ここにあらずで、別れたはずの今ヶ瀬と惰性のように関係を続けます。映画版で描かれる恋愛の業とは、傷つくことと傷つけることを分かっていながら、どうしても離れられない人間のどうしようもなさです。

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 今ヶ瀬と離れられないと悟った恭一は、ついにけじめをつけ、たまきに別れを告げます。しかし、家に戻ると今ヶ瀬はいなくなっていました。

 昔、恭一が今ヶ瀬との関係に溺れるのを恐れていたように、今ヶ瀬もまた恭一への恋心に溺れていくことを恐れていたのです。これから先、数え切れないほど苦しい思いをすることは、今ヶ瀬自身がよく分かっていて、このままだと自分が壊れてしまうと思い、今ヶ瀬は恭一のもとから去ることにしたのです。

 恭一は、一人になった部屋で、今ヶ瀬のことを想いながら、彼の帰りを待ちます。いつか今ヶ瀬が振り向いてくれることを信じ、かつて今ヶ瀬が恭一のことを想っていたように…

映画『コリーニ事件』と原作小説「コリーニ事件」(ネタばれあり)

今回紹介する映画は『コリーニ事件』です。

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あらすじ

 弁護士事務所を開設して3ヶ月ほどの新米弁護士カスパー・ライネンは、経済界の大物実業家を殺害したファブリツィオ・コリーニという男の国選弁護人を引き受ける。しかし、この事件で殺害された被害者は、ライネンの少年期に、よくを面倒を見てくれた親友の祖父ハンス・マイヤーであった。ライネンは公職と私情の間で揺れながらも、コリーニの弁護をすることを決める。しかし、容疑者であるコリーニは殺害の動機について黙して語らないため、動機のない謀殺による殺人として、ドイツの法律で最も重い終身刑が求刑されようとしていた。果たしてライネンはコリーニの動機を突き止め、事件の真相を暴くことが出来るのか…

 

原作

原作はフェルディナント・フォン・シーラッハの同名小説『コリーニ事件』です。 

 原作者のシーラッハ氏は、1994年から刑事事件専門弁護士として活躍する現役の弁護士です。デビュー作となる短編集「犯罪」でドイツのクライスト賞を受賞し、2作目となる『罪悪』もベストセラーとなり、3作目にして初の長編作品となったのが本作『コリーニ事件』です。

弁護士としての経験に裏付けされた法廷の描写は実に細かく描かれており、物語のリアリティを際立たせています。

 

もしかすると、シーラッハという名前に聞き覚えがある方もいるかもしれませんが、作者はとても特徴的な出自の作家です。しかし、その出自自体が本作のネタバレに触れかねないものなので、後述します。

 

スタッフ・キャスト

本作のメガホンをとったのはマルコ・クロイツパイントナー監督です。 

クラバート 闇の魔法学校 [DVD]

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  • 発売日: 2010/07/02
  • メディア: DVD
 

 クロイツパイントナー監督は2003年『BEAKING LOOSE』で長編映画デビューを果たし、2004年『サマー・ストーム』でミュンヘン国際映画祭の観客賞を受賞。2008年に公開された『クラバート 闇の魔法学校』は その年にドイツで最もヒットした作品の一本となりました。シリアスな人間ドラマも大衆性のある娯楽作品も作れるオールマイティな監督といえます。本作はシリアスなテーマの作品ですが、新米弁護士が奔走する様はコミカルさもあり、緩急のメリハリがしっかりしていて監督の手腕を感じさせました。

 

 主人公ライネンを演じたのは『THE WAVE ウェイヴ』や『ピエロがお前を嘲笑う』に出演していたエリアス・ムバレク。弁護士役を演じるにあたって、刑事訴訟法を諳んじて言えるほどまで勉強したそうで、法廷において弁護士がやることとやらないことを完璧に理解し、完全に会得していたそうです。また、彼はシーラッハ作品の大ファンだそうで、作品中に出てくるシガレットケースは、シーラッハに初めて会ったときにもらったものだそうです。

 

 事件の容疑者コリーニを演じたのは、『続・荒野の用心棒』や『ジョン・ウィック:チャプター2』などの名優、フランコ・ネロ。監督が個人的に手紙を送ってまで出演を熱望しただけあって、少ないセリフ量にも関わらず、重厚な演技によって圧倒的な存在感を示していました。

 

私見

85点/100点満点中

 原作小説で描かれていたドイツの暗部を丹念に映像化しつつ、映画的なエモーショナルさを際立てた改変もあり、非常に良い脚色がなされていたと思います。

原作小説を読んだ人だとクライマックスの法廷シーンの改変が賛否分かれるかもしれませんが、法治国家が持つ不合理性を鋭く突き立ててくる演出として、個人的には好きな改変でした。

ただ、主人公の元恋人であるヨハナの描かれ方に関しては、少し首をひねってしまう部分がありました。

 

 

 

 

以下ネタばれあり

 

 

 

 

原作との比較

本作は、原作のストーリーを基本的にはなぞっていますが、細かい部分に改変が加えられています。

まず、主人公の出自が原作と異なっています。原作では、主人公の父親は上流階級の資産家で、ライネンに弁護士事務所用のデスクをプレゼントしていたりと、親子関係はかなり良好に描かれています。対して映画版での父親は、書店を営むごく平凡な男で、ライネンの少年期に、彼と母を捨て家を出た人物に改変されています。この改変により、父に捨てられたライネンにとってハンス・マイヤーが父親同然の存在だったことが際立ち、実の父が息子の仕事をサポートし関係を修復させていく展開も、本作に通底する「父と子の物語」というテーマを、より深みのあるものにしていました。

また、原作でドイツ人女性だったライネンの母親は、映画版ではトルコ人女性に改変されています。映画中でライネンが「トルコ人!」とからかわれるシーンもあり、程度の差こそあれ、彼もコリーニと同じように迫害の受けていた社会的弱者であることが示されています。そのため、下流階級出身の主人公が巨大な国家の闇に立ち向かうという、ドラマ性が増強されていました。

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 本作の中で最も大きな改変といえるのが、ハンス・マイヤーの遺族の公訴代理人のマッティンガーの描かれ方です。原作では法治主義を重んじる普通の弁護士だったマッティンガーが、映画版ではドレーアー法の草案に関わった人物に改変されています。クライマックスのマッティンガーが証言台に立つ展開は映画版オリジナルのものです。現実世界では裁かれることのなかったドレーアー法草案者に、自分の過ちを認めさせる展開は、架空の話で溜飲を下げるためのシナリオともとれるので、賛否分かれそうな改変ですが、この法律がいかに不条理なものかを際立て、映画としてのエモーショナルさも高まっているので個人的には嫌いではないです。

 

ライネンが事件の調査のためにイタリアのモンテカティーニに向かう展開も映画オリジナルのもので、通訳として引き連れるピザ屋のアルバイト・ニーナも、映画版オリジナルのキャラクターです。実際に虐殺が行われた地を訪れることで、悲惨な歴史を鮮明に映し出し、より心に迫る画になっていました。また、ニーナの存在によって、シリアスなドラマの中に程よい和らぎが生まれていたので、良いオリジナルキャラクターだったと思います。

 

不満点

 ハンス・マイヤーの孫で、かつてライアンと恋仲にあったヨハナは、先人たちの過ちを現代を生きる我々がどう受け止め、これから先を生きて行けば良いかを示す重要なキャラクターです。

原作では、ホルガー・バウマンというマイヤー機械工業の法律顧問が、ライアンに対し、コリーニの減刑に協力する代わりに陳述をやめるよう求め、大きな事件の弁護をライアンに回してあげようと持ち掛けるのですが、後にそのことを知ったヨハナはバウマンをクビにします。

 対して映画版でのヨハナは、祖父がナチスの司令官だったことを知って、ショックを受けるものの、その夜にライアンを食事に誘い、それに対してライネンから裏があるのではないかと指摘されると、逆ギレし「祖父がいなければ、あなたは今頃ケバブ屋の店員よ」と差別的な言葉を吐き捨てます。原作にも、ヨハナがライアンに「どうして何もかも壊そうとするの?」と問いかけるシーンはあるのですが、ライアンにひどい言葉を浴びせたり、激昂したりはしていません。

真実に誠実であろうとした原作のヨハナと比べると、映画版では彼女が卑怯でヒステリックなキャラクターに見え、少し不満に感じてしまいました。 f:id:nyaromix:20201010151837j:plain

 映画版は、父子の物語に焦点を当てるために、コリーニが抱えるナチスへの遺恨が、父を殺されたことのみになっていましたが、原作ではコリーニの過去の心的外傷がより深く描かれています。

 原作にはコリーニの姉がドイツ軍の兵卒に強姦される描写があり、その現場を目の当たりにしたコリーニが叫び声をあげてしまい、驚いた兵卒が拳銃を抜いたところ姉と揉み合いになり、姉が射殺されてしまうという忌まわしい過去が描かれています。姉が犯されるシーンを入れると、センシティブさや観る側のキツさが増してしまうのは分かりますが、戦争がもたらす人間の醜行を伝えるために、このシーンも映画内で描いてほしかったです。 

 

 

 ナチスパルチザン

 ナチス時代の悲劇を描いた作品といえば、ユダヤ人への迫害や虐殺を扱ったものが多いですが、本作では1940年代にドイツとイタリアの間で起きた事件を扱っていています。

 1943年、勢力を強めるナチスにイタリアが降伏し、イタリア国内には多くのドイツ軍人が派遣されていました。イタリアの反ファシズムの非正規軍パルチザンは、祖国解放のためにドイツに徹底抗戦しましたが、ナチスの暴虐は凄まじいものでした。

 本作は実話ではないものの、モデルとなった事件や人物が存在します。本作に登場するナチスの司令官ハンス・マイヤーのモデルとなったのは、第二次世界大戦中に親衛隊保安部ジェノヴァ管区司令官だったフリードリヒ・エンゲルです。エンゲルは、司令官在任中の1944年に、パルチザンによるテロへの報復として、イタリア人59人の射殺命令を出し、「ジェノヴァの死刑執行人」や「ジェノヴァの殺人鬼」などと呼ばれました。

 エンゲルは、2002年にハンブルグで行われた裁判で殺人の罪により禁固7年の刑に処されたものの、2004年に行われたドイツ最高裁判所の判決では、すでに時効が成立していることや高齢による健康状態を理由に有罪判決が棄却されてしまいました。

 本作はこのような事実をもとに作られた物語なので、フィクションでありながら現実と地続きのように感じられる真に迫った作品になっています。

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法治国家に見捨てられた人々

 本作を語るうえで最も重要なキーワードが、1968年に発布された、秩序違反施工法とそれにともなう一部の法改正、通称『ドレーアー法』です。

 ドイツ刑法では殺人事件が起きた場合、欲・快楽・人種憎悪などの低劣な動機による”謀殺罪”と、謀殺のような心理的傾向に基づかない”故殺罪”とに大別します。謀殺罪が成立した場合、死刑廃止国のドイツでは最も重い終身刑が科されます。旧来のドイツ刑法では、謀殺罪のほう助者においても、共犯が成立するとみなされてきました。優生思想や見せしめのための虐殺などは、本来であれば謀殺罪として裁かれるべきなのですが、ドレーアー法の制定により、命令に従って殺人を犯したほう助者は故殺罪として減刑されることとなりました。つまり、ヒトラー、ヒムラ―、ハイドリヒなどの最高指導部の人間は謀殺罪として扱われるものの、それ以外のナチ党員たちは命令に従っただけの者とみなされたのです。さらに、謀殺罪と故殺罪では時効成立までの期間が異なるため、故殺罪扱いとなったほう助者たちは、その多くが時効成立により実刑を免れました。

 この法律を作ったエドゥアルド・ドレーアーは、元ナチ党員で、インスブルック特別法廷の筆頭検事時代には、食糧品の窃盗犯に死刑を求刑したことなどで知られています。戦後、西ドイツ法務省に入省した彼は、ドイツ刑法の改正に多く関わり、1968年にドレーアー法の草案を作成しました。建前上は、学生運動に関わり犯罪行為を犯した若者の救済でしたが、その実態は元ナチ党員たちへの狡猾な恩赦でした。そのため、法治国家であるにもかかわらず、人々を守るための法が、被害者たちを救ってくれないという歪んだ結果を生んでしまったのです。

映画内では、ドレーアー法の草案に関わったマッティンガーが過ちを認め、この法律の不条理性が炙り出されます。それは、ドレーアー法によりハンス・マイヤーを告発する機会を奪われたコリーニが、人生で唯一正義というものに触れた瞬間でした。その夜、コリーニは自らの手で命を絶ちます。彼にはハンス・マイヤーへの制裁だけが生きる意味であり、法廷でマイヤーの過去や歪な法律が全て剔抉されたことで、人生の目的がみな果たされたのです。 

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君は君だ 

 法廷で実の祖父がナチスの司令官だったことが白日のもとに晒されたヨハナは、これから先すべてを背負って生きていかなければいけないのかライネンに問いかけます。そんなヨハナにライネンは「君は君だ」と答えます。このやり取りは原作者であるシーラッハの思いが特に込められているシーンです。

 原作者フェルナンド・フォン・シーラッハの祖父はバルドゥール・フォン・シーラッハというナチ党全国青少年指導者(いわゆるヒトラーユーゲントの指導者)で、ウィーン大管区指導者などを歴任したナチ独裁政権の中心人物の一人です。のちにバルドゥールは、ニュルンベルク裁判にかけられ、禁固20年の刑に処されます。祖父であるバルドゥールが刑期満了で釈放されたとき、孫のフェルナンドはまだ2歳で、祖父と別居するまでの4年間毎日一緒に散歩し、よく遊んでいたそうです。何も知らない幼少期のフェルナンドにとっては、バルドゥールはごく普通の好好爺でした。しかし、フェルナンドが12歳のときはじめて祖父が戦争犯罪者であることを知ります。学生時代はその出自のせいでひどい吊し上げにもあったそうです。

 『コリーニ事件』はそんな作者だからこそ描けた物語であり、「君は君だ」という言葉には、戦争犯罪者の子孫だからといって肩身の狭い思いをする必要はない、大切なのは過去の間違いを繰り返さないことだと、いう想いが込められています。

 シーラッハが『コリーニ事件』を出版し、大ベストセラーとなってから数か月後の2012年1月、ドイツは法務省内に「ナチの過去再検討委員会」設置しました。この委員会の立ち上げにはこの小説が大きく影響を与えたといわれています。

 先人たちの過ちを無かったことにすることは出来ないが、現代を生きる我々が正しい行いをすることで、これから先の未来を変えていける。そう感じさせてくれる作品でした。

映画『スターリンの葬送狂騒曲』と原作コミック『La Mort de Staline』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は

映画スターリンの葬送狂騒曲です。

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【あらすじ】

1953年、ソ連の最高権力者ヨシフ・スターリン脳出血により危篤状態に陥った。すぐに側近たちが邸宅に集められるが、皆一様にスターリンの後釜を狙い、色めき立っていた。そんな中スターリンの補佐役で一番の腹心あったマレンコフが書記長職の代理を務めることになり、マレンコフと手を結んでいたNKVD警備隊トップのベリヤが第一副議長の座を手に入れる。ナンバー2に成り上がったベリヤは、マレンコフを裏で操り権力を振るおうと目論むが、第一書記長のフルシチョフはベリヤに出し抜かれたことが気に入らず、権力者の座を奪取しようと狙っていた…

 

【原作】

原作はファビアン・ニュリ作、ティエリ・ロバン画グラフィックノベル『La Mort de Staline』です。  

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

スターリンの葬送狂騒曲 (ShoPro Books)

 

 ↑映画の公開に合わせて邦訳版が映画と同名タイトルでリリースされています。

本作はフランスで出版されたコミックで、いわゆるバンド・デシネと呼ばれる類の作品です。

作者のファビアン・ニュリは、ナチスが開発した吸血鬼兵器を描いた物語『我が名はレギオン』や、移民のユダヤ人少年がパリの暗黒街を牛耳っていく様を描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・フランス』などのシナリオを手掛け、世界的権威のあるアングレーム国際漫画賞などを受賞してきた鬼才です。

ニュリ氏は祖父の家でスターリンに関する書籍を発見したことがきっかけで、スターリンの死後の権力闘争に興味を持ったそうです。最初は重たい政治スリラー作品になると思っていたのに、調べていくうちにその実情があまりに馬鹿馬鹿しかったことを知り、恐怖を感じる同時に笑いもしてしまったそうです。作者自身この時のことを、ジョン・ル・カレ作品やロバート・ラドラム作品のような作風を目指していたのに『博士の異常な愛情』のような作品のネタになるものを見つけてしまった」と語っているほどです。

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンを取ったのはアーマンド・イアヌッチ監督です。  

In The Loop [Import anglais]
 

 イギリスの国際開発大臣の失言により英米間で混乱が起こって行く様を描いた映画『IN THE LOOP』や、アメリカの女性副大統領の奮闘を描いたドラマ「Veep/ヴィープ」など、政治界のヒリヒリした人間関係を面白おかしく描くことに定評のあるイアヌッチ監督だけに、政治劇でもある本作への起用は彼の資質にピッタリあっていたと思います。

  本作のメインキャラクターとなるフルシチョフを演じたのはスティーブ・ブシェミ。実際のフルシチョフにはあまり似てはいないのですが、スターリンの前での道化っぷりや、権力の座を狙う狡猾さが、熟練の演技で巧みに表現されていました。ブシェミといえばハリウッド随一の殺され役者としても有名ですが、果たして本作で彼は生き残るのか、はたまた亡くなってしまうのかはは是非映画を見て頂きたいです。(史実を知っていれば分かりきったことですが)

フルシチョフと対立するベリヤを演じたのはサイモン・ラッセル・ビールシェイクスピア俳優として知られる名優だけに、極めて下劣で最低野郎のベリヤを演じるのにはかなりギャップを感じたのですが、悪漢で憎たらしいベリヤを見事に演じていました。出演者の中でベリヤが一番、史実に近いビジュアルだったと思います。

 

私見

84点/100点満点中

原作コミック以上にコメディ要素を強めた本作は、登場人物の殆どが滑稽なキャラクターとして描かれています。ただ滑稽と言っても、間が抜けているというわけではなく、政敵の失脚や民衆からの人気取りを目論んだ結果、思いもよらぬ方向へと事が転がっていき、狼狽する人間の滑稽さが描かれています。(マレンコフは完全に間の抜けたキャラクターとして描かれていましたが…)彼らの権力闘争の影で犠牲になった人々の姿もきちんととらえており、馬鹿馬鹿しい物語でありながら、作り手がとても誠実に作っている印象を受けました。

半世紀以上前の事件がベースとなった物語ですが、現代にも通ずる鋭い皮肉が効いていて、笑える部分とゾッとする部分が絶妙な塩梅で両立していました。

 

 

 

以下ネタバレあり 

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映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』と原作漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の比較(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は、

映画志乃ちゃんは自分の名前が言えないです。

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 【あらすじ】

人と喋ろうとするとどうしても言葉が詰まってしまう少女・大島志乃。彼女はこの春から高校一年の新学期を迎えようとしていた。人前で上手く話すことの出来ない志乃は、新しいクラスで上手く自己紹介が出来ず、 みんなの笑い者になってしまう。友達も出来ずひとりぼっちの志乃だったが、ひょんなことからクラスメイトの加代と知り合い、友達になって行く。ギターを弾けるが音痴の加代は、カラオケで朗々と歌を唄う志乃の姿を見て「私と組もう」と提案するのだが…

 

【原作】

原作は押見修造さんの同名漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』です。

本作は2011年から2012年にかけて太田出版WEB連載空間『ぼこぽこ』に連載されていた作品で、単行本化されると大きな話題を呼び、ロングセラーとなりました。

押見先生自身も、学生時代に吃音症に悩まされていたそうで、この漫画は自身の実体験が下敷きになっているそうです。(押見修造と、本作の主人公・大島志乃のイニシャルがO・Sで一緒なのもおそらくそういった理由)

押見先生が喋りに不自由さを感じるようになったのは中学生の頃だったそうなのですが、それを「吃音」というものだと知るのはしばらく後のことだったといいます。

吃音は大きく2種類に分けられ、最初の音が連発して出てしまう「連発型」と、最初の音がうまく出てこない「難発型」があるそうです。押見先生は後者の難発型で、本作の主人公も「…………っ……お、……おお……」というように、最初の音がうまく出せない吃音者として描かれています。

 

【スタッフ・キャスト】

メガホンを取ったのは、本作が長編商業映画デビューとなる湯浅弘章監督です。

 

自主制作映画界出身の湯浅監督は、ぴあフィルムフェスティバルなどで多数の賞を受賞し、林海象監督や押井守監督のもとで助監督を務めてきた方です。

これまで多くのテレビドラマやミュージックビデオ手掛けてきた湯浅監督ですが、映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のルーツともいえる作品が、乃木坂46『大人への近道』のMVです。どちらも同じ沼津ロケの作品(映画とMVで同じ撮影場所もチラホラ)で、海沿いを歩くシーンやバスに揺られる少女たちなど、MVにあった印象的なショットが、映画にも盛り込まれています。なにより、少女たちの刹那的な輝きを捉えることに卓越した監督なので、本作に湯浅監督の起用したのは大英断だと思います。

本作の脚本を担当したのは、『百円の恋』や『嘘八百』などを手がけた足立紳。小説家としても精力的に活動している足立さんだけに、多少の脚色を交えながらも原作へのリスペクトがしっかり感じられる脚本に仕上がっていました。

主人公・志乃を演じたのは『幼な子われらに生まれ』などに出演した南沙良。まだまだキャリアの浅い新星ながら、吃音の少女という難しい役どころを見事に演じきり、堂に入った演技をしていました。特に心を鷲掴みにされたのは、彼女の中の演技で、華麗な泣き顔ではなく、顔じゅうをグシャグシャにしながら涙する姿に心を打たれました。

志乃の親友・加代を演じた蒔田彩珠の演技も大変素晴らしく、クールであまり感情を表に出さない加代がふとした瞬間に感情を露わにするメリハリの効いた演技でとても良かったです。

 

私見

96点/100点満点中

原作の世界観を壊さず丁寧に映像化し、漫画へのリスペクトが存分に伝わってくる作品になっていました。原作が大事にしていたテーマをうまく汲み取りつつ、改変された点や映画オリジナルで加えられたシーンも作品世界に広がりを持たせていました。

志乃と加代を演じた2人の演技も素晴らしく、彼女たちが仲良くはしゃぐシーンは何時間でも見ていたかったです。

劇中曲も、ストーリーとマッチしていて柔らかい歌声がとても耳心地良かったです。

 

 

 

以下ネタバレあり

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