映画『メアリと魔女の花』と原作小説『小さな魔法のほうき』(ネタバレあり)
今回紹介する作品は
映画『メアリと魔女の花』です。
【あらすじ】
大叔母の住む田舎町・赤い館村に引っ越してきたメアリは、遊びに出かけた森の中でエメラルド色の目をした黒猫と出会う。 猫の後を追いかけていくと紫色に光る不思議な花を見つけ、メアリはその花を摘み取ってしまう。その花の名は“夜間飛行”。7年に1度しか咲かない花で、かつては魔女までが探し求めた花だという。明くる日、森の中で古びた箒を見つけたメアリは、誤って夜間飛行の蜜を箒につけてしまう。すると箒は激しく動き出し、メアリを乗せて空高くに飛び立つのであった…。
【原作】
原作はメアリー・スチュアートの児童小説『小さな魔法のほうき(原題・The little broomstick)』です。
- 作者: メアリースチュアート,赤星亮衛,Mary Stewart,掛川恭子
- 出版社/メーカー: 復刊ドットコム
- 発売日: 2006/06/25
- メディア: ハードカバー
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映画公開に合わせて『新訳 メアリと魔女の花』という、文庫本も出版されています。映画のタイトルがつけられた本ですが、中身は『小さな魔法のほうき』と変わらず、映画版のノベライズというわけではないので、原作の内容を知りたい方はこちらを読んでも問題ありません。(ストーリーは一緒ですが『小さな魔法のほうき』の訳者の掛川恭子さんと、新訳版の翻訳者は違う人なので、小説の文体に若干の違いがあります)
挿絵のついた児童文庫版も出版されていますが、映画版のメアリの絵柄で原作どおりのストーリーが展開されるので、映画を見た子供が読むと少し混乱するかもしれません。特にドクター・デイやフラナガンのキャラクターデザインは原作通りに描かれていて、映画版のビジュアルとはまるで違うので違和感を感じるかも。
本作は1971年に発表された児童文学で、原作者メアリー・スチュアートにとって初めての子供向け小説になります。たまに“ハリーポッターのパクリ”と揶揄されることがありますが、ハリーポッターより20年以上も前に書かれた魔法小説です。
原作の主人公・メアリーは自分のメアリー・スミスという平凡な名前にコンプレックスを抱いているのですが、これは同じ名前を持つ作者の投影かもしれません。
原作中に出てくる魔法の呪文はマザー・グースの詩を元にしており(映画版には出ませんが)呪文の語感の良さも魅力の1つです。
【スタッフ・キャスト】
米林監督作は『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』に続く3作目になります。3作とも原作ありの作品なので、個人的にはそろそろオリジナル脚本で監督の自力が見たいところです。
『メアリと魔女の花』は、スタジオジブリ制作部が解体になり、本作のプロデューサーである西村義明さんが立ち上げた“スタジオポノック”(ポノックとはクロアチア語で「深夜0時」のことを言い、新たな始まりという意味が込められている)の第一回長編映画です。米林監督曰く本作は「ジブリの血を引いた作品を作ろう」という意気込みで制作された作品だそうです。
その言葉通り、本作にはかつてジブリのスタッフとして活躍していた方々が多く関わっています。
『千と千尋の神隠し』の原画や『ハウルの動く城』の作画を務められた稲村武志さんが本作の作画監督を務めていたり、『パンダコパンダ』時代から宮崎・高畑コンビを支えてきた男鹿和雄さんが背景を務めていたりと、ベテランたちが脇を固めています。
このようなジブリの意思を引き継ぐスタッフによって作られたビジュアルはアニメーション的快感にあふれています。
主人公のメアリの声を担当したのは杉咲花さん。少々幼さの残る声が人としての成長途中のメアリにぴったり合っており、とても良かったです。
【私的評価】
72点/100点満点中
原作からの改変点が多々あった映画ですが、小説の根幹にあったテーマはしっかり抑えており、原作になかった新たな視点を持ち込むことで物語に深みを与えていました。
美術も大変素晴らしく、カラフルな魔法界の景色は見ているだけでも楽しかったです。
ただ、物語の構成に気になる点もあり、やや冗長に感じられるところもありました。
以下ネタバレあり
【原作との比較】
原作のストーリーに沿って展開されるのは序盤から中盤にかけてまでで、物語の中盤以降はかなり大胆に映画版オリジナルの要素を加えています。
改変部として特に大きかったのが、メアリと冒険を共にする少年・ピーターをめぐる物語です。
ピーターは原作では物語中盤から登場するキャラクターなのですが、映画版では一幕目から登場し、メアリの癖っ毛を揶揄しコンプレックスを刺激します。原作のピーターは冷静に物事を見てメアリをアシストするキャラクターなのですが、映画版ではメアリと共に成長していく等身大の少年になっており、感情移入しやすいキャラクターになっていました。
ピーターを巡る物語が前景化しているので、映画版のクライマックスも原作と大きく異なっています。
小説版では魔法の真髄を持ち出したメアリとピーターをマダム・マンブルチュークとドクター・デイが箒で追跡するチェイスシーンが物語のクライマックスとなっていたのですが、映画版のラストは変身術の実験体になってしまったピーターをメアリが救い出す展開になっています。
展開は異なっていましたが、原作と同じく、ピーターの存在がメアリの成長にとって欠かせないファクターとなっていました。
映画の劇中、マダム・マンブルチュークが「電気も魔法の一種」と語る、原作にはなかったセリフが付け加えられています。そして映画のラストでは夜間飛行を使った変身実験が行われるのですが、実験は失敗しドクターの手に負えない大惨事が巻き起こります。これらのシーンには米林監督の原子力批判(特に原発に対しての)が込められており、監督の作家性が伺えます。
ジブリ映画でもよく見られた「行き過ぎた文明に対してのアンチテーゼ」が本作でも踏襲されており、ジブリイズムが継承されているのが良く分かります。
【原作からの改良点】
原作からクローズアップされているのはピーターだけではありません。メアリの大叔母にあたるシャーロットも物語のカギを握る重要な人物になっています。
映画版は、シャーロットがかつてエンドア大学の学生だったという設定が加えられており(原作にも、かつて赤い館から来た魔女がいたことを匂わせる描写はありますが)、夜間飛行に魅せられ危険な変身実験を繰り返すマダムとドクターから花を盗み出した過去が明かされます。
シャーロットはメアリにとってのメンター的な存在なので、彼女がかつて行った行為がメアリにも受け継がれ、平和への思いが託されていくという継承の物語が映画オリジナルの要素として加わえられていました。
エンドア大学の箒小屋の番人フラナガン(小説版では獣の姿ではなく年老いた小男)は、原作ではマダムやドクターとグルになって、メアリから黒猫のティブを奪う悪人なのですが、映画版ではメアリに箒を届けてくれる気のいいキャラクターになっています。フラナガンの存在によって魔法界の住人も悪人ばかりではない描かれ方になっており好感が持てました。
引っ越してきた大叔母の家に自分の居場所を見出せず居心地の悪い思いをしていたメアリが、魔法界から帰ってきて、大叔母の家を我が家として認識するようになる心境の変化も映画オリジナルで描かれておりとても良かったです。
【本作の不満点】
映画版ではピーターを主軸にして物語が展開されるのですが、マダムに捕まったピーターを助けようとメアリが救出に向かうシーンが中盤以降2度も繰り返される(学校に救出に向かう場面と、実験所に救出に向かう場面)ため物語が前進しているような気がせず、冗長に感じてしまう部分がありました。
また、キャラクターのバックボーンがはっきりと描かれないためモヤモヤするところもいくつかありました。
作中でピーターが一瞬自身の母の話に言及しそうになる場面があるのですが、それ以降何も語られないため彼の背景が掴めないまま終わってしまいます。キャラクターに深みを出すというのは観客に中途半端に情報を与えることではないと思うので、もう少し彼の境遇が汲み取れるような演出がほしかったです。
マダムとドクターについても強大な魔法の力を手に入れた後、その力をどうしたかったのかが分からずじまいないので、もうすこし共感できる一面がある悪役にしてほしかったです。(原作でも実験を行う動機は明らかになりませんが…)
【夜間飛行】
7年に1度しか咲かず、触れたものに不思議な力を与える魔法の花“夜間飛行"(原文・fly-by-night)。メアリは偶然見つけたこの花に触れたことがきっかけで魔法の力を手に入れます。
本作の魅力は「ハリーポッター」のように、選ばれし偉大な魔法使いの物語ではなく、一人の普通の少女がたまたま不思議な力を手に入れてしまうところです。これによって魔法の力など持たない我々観客側も彼女の冒険に同調しやすくなっています。
夜間飛行は、原作ではただ単にメアリに不思議な力を与えてくれる花というだけで、マダムたちがメアリを追いかけ回す理由も花を奪うためではありません。(小説版では黒猫のティブを奪うことと、呪文の真髄を取り返すことがマダムたちの動機)ですが映画の中での夜間飛行は、マダムたちが執拗に追い求めるほどの魔力に満ちた花というふうに描かれています。
本作における魔法は現実世界の科学と地続きのものなので“魔女たちが追い求める強大な力を持つ花”という点を強調することで、現代の過度な科学信奉に対しての批判が込められていました。
【なりたい自分とありのままの自分】
原作ではメアリー・スミスという自分の凡庸な名前にコンプレックスを抱いたメアリですが、映画版ではクセの強い赤毛に対してのコンプレックスを抱えており、ピーターからは「赤毛の小猿」と揶揄されます。
ピーターから揶揄われ怒ったメアリは、今の自分の姿は望んだものではなく、変わりたいと思っているという胸の内を語ります。
後にピーターも早く大人になりたいという願望を抱いていたことが明らかになります。
しかし、変身術の実験体として本当に大人の姿になると、作り出された変身体のピーターは暴走を始めてしまいます。その後、メアリの魔法によって他の実験動物同様なんとか本当の姿を取り戻します。
このように本作は、自分自身に対しての不満やコンプレックスを無理に変えてしまうよりも、ありのままの自分を受け入れることが大事であることを教えてくれます。
ピーターからつけられたあだ名に嫌悪を示していたメアリも、物語後半、マダムから逃げる際に赤毛のサルに身代わりになって助けてもらったことで、赤毛の子ザルという呼び名に対して怒っていた自分を省みます。
自身のありのままの姿を肯定できるようになったメアリは、自分のコンプレックスを受け入れ、そこから表情も変わり始めます。
(映画ラストのメアリのポニーテール姿には何となく監督のフェティシズムのようなものが感じられて良かったです。)
【魔法なんていらない】
劇中、メアリが最高の魔術書“呪文の真髄”を使うシーンがありますが、その魔術書でメアリが使う魔法は「全ての呪文を解く魔法」だけです。
解錠の呪文などの魔法も魔術書には記されているですが、監禁された地下室からの脱出の際にすら、その呪文を使わず自分たち(動物たち)の力で扉をこじ開け脱出します。
いろんな魔法が見たい人にとっては不満に思うかもしれませんが、おそらく作り手側は主人公になるべく魔法の力に頼らせず、自らの力で困難を解決していくキャラクターにしたかったのではないかと思います。
映画のラストシーン、メアリは最後に残った夜間飛行を捨て、魔法との決別をします。
はじめは夜間飛行で魔法の力を手に入れ、自分の承認欲求を満たし悦に入っていたメアリでしたが、我を忘れて花を追い求める魔女たちや、夜間飛行で変身させられた動物や人間の有り様を見て花の持つ力の恐ろしさを実感します。
魔法の便利さを知った一方で、その危うさも知ったメアリは魔法から脱却することで自分の未来を自分で切り開いていく決断をしたのでした。
ただ、最後に1つメアリに言いたいことが、「魔法の花を適当に放り捨てちゃダメだよ!」