雁丸(がんまる)の原作代読映画レビュー

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映画『殺人者の記憶法』と原作小説『殺人者の記憶法』(ネタバレありの感想)

今回紹介する作品は

映画殺人者の記憶法です。 

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【あらすじ】

閑静な田舎町、娘のウンヒと2人で穏やかに暮らすキム・ビョンス。ビョンスはかつて獣医師として働いていたが、その裏の顔は、存在価値がないと判断した人間を容赦なく殺す殺人鬼であった。しかし、現在彼はアルツハイマーを抱えており、新しい記憶が抜け落ちていく症状に陥っていた。

そんなある日、ビョンスは不注意から追突事故を起こしてしまう。追突相手の車を見ると荷台から血が滴っており、ビョンスはテジュと名乗る事故相手の男が人殺しであることを察知する。ビョンスはテジュの魔の手から娘を守ろうと画策するが…

 

【原作】

原作はキム・ヨンハさんの小説『殺人者の記憶法』です。 

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)

殺人者の記憶法 (新しい韓国の文学)

 

 キム・ヨンハさんは、文学トンネ作家賞や黄順元文学賞、東仁文学賞、万海文学賞など、韓国の主要な文学賞はほぼ全て受賞している天才作家であり、韓国現代文学会の寵児です。

日本では『阿娘はなぜ』『光の帝国』などが、邦訳され出版されています。

キムさんは、10歳の時、オンドルと呼ばれる練炭を使った床下暖房によって練炭中毒になってしまい、それ以前の幼年期の記憶の大半を失った過去があるそうです。その経験がこの小説に活かされているのかは定かではありませんが、本作は記憶を失うことの恐ろしさがひしひしと伝わる作品になっています。

 

【スタッフ・キャスト】

本作のメガホンを取ったのは『鬘 かつら』や『サスペクト 哀しき容疑者』などを手掛けたウォン・シニョン監督です。

 ウォン・シニョン監督は、 主にサスペンス色の強い映画を得意としている方ですが、本作は『鬘 かつら』でも見せたホラー的演出や、『セブンデイズ』でも見せた親子愛の物語など、監督の今までの作品の良いとこどりをしたようなシーンが盛りだくさんで、どの部分を取ってみても高水準の映画に仕上がっています。

監督はアルツハイマーを患った人間を描くにあたって、直接医師からの指導を受けに行ったそうで、医者からのお墨付きをもらった映画ということもあり、劇中の認知症描写にはとても説得力があります。

主人公のビョンスを演じたのは、『シルミド/SILMIDO』『力道山』『オアシス』などに出演したソル・ギョングさん。ソルさんは、若き日のビョンスと年老いたビョンスを演じ分けるために、体重を増減させる肉体改造を行ったそうで、10kg以上ウェイトを絞ったそうです。彼の演じるビョンスは本当に狂気に満ちていて、その顔はまさに修羅といった様相でした。

若き殺人鬼テジュを演じたのは『ワン・デイ 悲しみが消えるまで』や『無頼漢 乾いた罪』などの。キム・ナムギルさん。彼もソル・ギョングさんに触発され、小憎たらしい殺人鬼を演じるために14kgも体重を増やす肉体改造をしたそうです。そのおかげで不気味さが増し、テジュの掴み所のない恐ろしさをより際立てていました。

 

【私的評価】

90点/100点満点中

 本作は原作と同じくアルツハイマーの殺人者を主人公にした物語ですが、原作通りなのはその基本設定ぐらいで、ストーリー面はかなり大きな脚色が加えられています。しかしながら、その脚色が実に巧みで、ストーリーテリング力に感嘆させられました。

原作の淡々としたストーリーを、映画的ダイナミズムを盛り込んだストーリーに改変し、全く飽きさせない作りになっています。

登場する役者さんがいずれも素晴らしく、特に主人公を演じたソン・ギョルグさんは、記憶を失いつつある殺人鬼という突飛な設定にも関わらず、説得力のある演技を見せてくれました。

 

 

以下ネタバレあり

 

 

 

 【原作との比較】

ウォン監督は小説というコンテンツと映画というコンテンツの相違性をとても理解していて、映画として説得力を持たせ、面白く仕上げるためには原作からの改変も厭わない監督です。監督自身がこの映画を撮る前に「原作から最も近く、最も遠い映画になるだろう」と考えていたとおり、原作の肝となる部分はしっかり抑えつつも、かなり映画独自のオリジナル性の強い作品になっています。

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「年老いた元殺人鬼が、新しい殺人鬼に出会い娘を守ろうとと奔走する」という大枠自体は原作通りですが、その設定を元に展開されるストーリーは大きく異なっており、特に後半部からの展開はほとんど真逆と言っていいほど違います。

後半部の展開で映画版と異なる点をいくつか挙げると…

  • ビョンスが信頼を置いていたアンという刑事は、ビョンスの空想上の人物で、存在していなかった
  • 娘のウニ(映画版ではウンヒという名)は、パク・ジュテ(映画版ではテジュという名)の手により殺されてしまう
  • 何も思い出せないビョンスはウニ殺しの罪を着せられ投獄される
  • そもそもウニは血の繋がらない娘ですらなく、ビョンスの家に看病をしに来ている介護福祉士だった
  • 最後までビョンスのウニ殺しの罪は晴らされることはなく、病状は進行し、最後は主人公の(魂の)死を匂わせる形で完。

他にも原作と映画版で異なる点は多々あるので、気になる方は読んでみてください。

正直言って原作は、ビョンスが若き殺人鬼に出し抜かれるばかりで、殺人鬼VS殺人鬼という構図にもなっていません。映画としての盛り上がりどころを作るために2人の対決シーンを盛り込んだのは英断だとおもいます。

 

【原作からの改良点】

 原作小説は、ビョンスが記憶を留めるために日々綴った日記という形で物語を構成しています。そのため彼の視点で見聞きしたことが記されおり、主人公の心情が色濃く出ています。

対して映画版は、ビョンスをやや客観的に捉えているため、彼の見聞きしたものをどれほど信じていいのか分からない、いわゆる“信頼できない語り手”になっていました。原作でもビョンスを信頼できない部分はあるのですが、映画版ではそれが拡張されています。この演出によりミステリーとしての面白さがぐっと引き立っていました。

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また原作では、ビョンスが最後に殺したのがウンヒの母であることや、ウンヒとは血の繋がらない親子であること、ビョンスの姉(原作では妹)は既に死んでいるといった事実が、主人公のバックグラウンドとして、かなり序盤に描かれているのですが、映画版ではこの事実を後半部の衝撃の展開として据えています

主人公の過去を、アルツハイマーという設定を用いて後半部で描くという、とても卓越した脚色力を見せつけてくれました。

 

【深淵を覗く時】

 原作中には、詩人や文豪たちが残した言葉の引用が多く散りばめられていて、映画版でもいくつかの格言が用いられています。

 中でも原作中で象徴的に登場するのがニーチェの言葉です。『ツァラトゥストラはかく語りき』や『善悪の彼岸』などの哲学書からの引用が多々見られるのですが、その中で本作を最も象徴しているのが

混沌をずっと見続けていると、混沌があなたを見つめる」(「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言い方のほうが馴染みがあるかも)という言辞でしょう。

この格言の前段には「怪物と戦う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。」という文言があります。 

ビョンスはテジュと相対したとき、一瞬にして自分と同種の人間であることを察知し、長年封印してきた殺人者(怪物)としての本能を再び呼び起こし、決闘に臨みます。

f:id:nyaromix:20180203194757j:plainビョンスもテジュも怪物的な殺人者で、似たような境遇を持つ者同士ですが、監督がビョンスはサイコパス型ソシオパスで、テジュはソシオパス型サイコパスと言っている通り、その性質は少し違っています。(ソシオパスとは親の躾などによって後天的に生まれる反社会的人格)

原作でのビョンスは、自分が少しでも気に入らないと思った人間を次々と殺すサイコ野郎でしたが、映画版では社会的に生きる価値がない(とビョンスが判断した)人間を殺す、多少道理の通った殺人者となっています。

このキャラクター性の改変が、ビョンスとテジュの対立軸を明確にし、物語を面白くしています。

 

【最愛の娘のために】

ビョンスが隠居する前、最後の殺した相手はウンヒの母でした。ビョンスは彼女を殺す直前に、ウンヒとは血が繋がっていなかったことを知ります。怒りに狂ったビョンスは幼いウンヒを殺そうとしますが、その時初めてビョンスの脳に障害が起き、実の娘ではないという事実を忘れ去ります。

もしかすると、ビョンスに認知症という病が降りかかったのは、最愛の娘を殺してはならないという自衛本能だったのかもしれません。

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その後、親子仲良く暮らしていた2人でしたが、テジュの魔の手がウンヒに忍び寄り、ウンヒはついに父が殺人鬼であったことを知ってしまいます。

自分の最愛の娘だからという一心で、ウンヒを守ろうとしたビョンスでしたが、真実を知ったウンヒにかけてあげられるのは「お前は俺の娘ではない」という言葉だけでした。2人がこれまで育んできた親子としての関係を否定するのは、ビョンスがこれまで犯してきた罪に対しての最大の罰なのかもしれません。

事件解決後、ウンヒは遺留品のボイスレコーダーを再生し「ウンヒは俺の娘だ」という父が残した録音を聞きます。たとえ血が繋がらなくとも、築いてきた親子の関係か偽りのものではなく、本当の父としてビョンスはウンヒを愛していたのです。

 

【一番恐ろしいもの】

原作からの改変点の多い作品ですが、見せ方は違えど原作で最も大事にされていた部分は丁寧に描かれています。それは“抗うことのできない時の経過”です。

作中で語られる「恐ろしいのは悪じゃない、時間だ。誰もそれに打ち勝つことはできない。」というセリフの通り、時間は容赦なくビョンスの病を進行させ、娘を見ても死んだ姉だと勘違いしてしまうほど記憶を奪っていきます。

不可抗力的に過ぎていく時間は、彼をカプグラ症候群(親族が別の人に思える病)に陥れ、譫妄はさらに深刻化していきます。

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容赦なくビョンスの記憶を奪うアルツハイマーですが、この病気は彼にとってはある種の救いでもあります。

娘の顔を思い出すことが出来なくなってしまったのも、幼いころの娘を殺さなかったのと一緒で、自分の過去のせいで娘を苦しめてしまうという呵責に対しての自衛本能なのかもしれません。記憶を失いという病は、彼にとっての呪いでもあり、救いでもあのでしょう。

 

物語のラスト、テジュについて何かを思い出したビョンス。彼の記憶をたどる旅は、まだ始まったばかりなのかもしれません。